視座を手に入れるには
普通、「知的生産」と言われると、『専門書を何冊も読んで』→『論文を書く』とか、そこまでいかなくても、『本を一冊読んで』→『ブログを1記事書く』というくらいの粒度を想定してしまう。 そして、そこまで粒度を上げてしまうと、『発想術』とか、なんかそんなウルトラな技が必要なように思えてしまう。 だから逆に、ぐっと粒度を落として、「ニュースを聞いて、ちょっとまともなコメントをツイートできるくらいの『視座』を手に入れる」ことを目標にしたとしたらどうだろう。 やることは結構明確にならないだろうか。
それの分野に関して構造化した知識を持つようにする(因果関係や歴史的経緯、関係者など) 知識と知識になるべくリンクがたくさんつながるようにしておく(語源とかアナロジー、対比関係とか) まず情報が引っかかり、次に発想が広がる。
ここに考えがいたって、もともと読んだ記事とは違うことを考えているともいえる。
もともと記事では「事実を事実として受け取れない。Factを解釈できない。過剰に物語や因果関係を求めてしまう傾向のままに、安易に納得や共感を得て安心しまう」
という書きかたなので、「自力で、FactをFactのままでその価値を感じ取れるようになろう。なれるのが一番いい」というのが暗黙の前提としてあるように感じられてしまう。(より明瞭な前景として、有名人や肩書などへのハロー効果を、第一に批判しているとは思うけど)
しかし、「FactをFactのままで価値を感じ取る」って、無理なんじゃないだろうか。誰にも。
「この地方では、こういうことは今までも10回に1回くらいは起きていた。今回の事件はそれに重ねてみて、特に発生頻度を大きく逸脱していないな」というくらいの背景知識がなければ、Factなんて点でしかない。 「物語を過剰に求めてしまう」というよりは、逆に、人間の思考様式である限り、味付けの濃い薄いこそあれ、物語(広義の)の形でしか情報を脳に取り込めないのだと思う。 そう考えれば、まず「ひとつの情報を聞いただけで、頭の中に芳醇な物語を生成できる状態」を作っておくことが重要になり、 次いで、「地と図を整理して、対象とする聞き手に分かりやすく物語を提示し直す」技術が必要になる。引っかかりやすく、広がりやすく。(でも、できたら「動物的な感情は煽らない範囲で」の、物語にしてほしいな、というのは、この記事を書いているいっきさんの願いだ)