文系脳
まあ、それは傾向の一つとしてある程度あるとしても、じゃあ、文系の教育と知識の中に「コミュニケーション学科」があるのか。コミュニケーション能力が、文系の目指すものなのか、というと違うような気がする。 私は、理科と社会だったら理科の方が好き、というだけで、数学のスコアも大して良くなく、どっちもどっちという程度の適性だ。だから「物語er」なんてタグも使う。 理系の知の体系というものが、論理と仮説と数字だとするならば、文系における知とはなんだろう。定義が、それがなくとも共通了解くらいはあるのだろうか。 個人的な考えから言わせてもらえるならば、それは「すべては一面的な主観に過ぎないかもしれない」という立場を保ち続けて推論することなのではないかと思う。 次点として、文章で定義されたルールの裏をかいたり、抜け道を見つけたりする能力だろうか。 物語というのは、文体が一人称か三人称かによらず、その場面その場面の主役の視点から描写されている。だから、そのカメラの死角や遠い舞台裏で何かがひそかに進行していても、それは読者に知らされることはない。 だから、よく言われるような、「主役に倒される悪者にも、言い分と事情と生活がある」というような想像力が、そこから要請されてくる。 妄想や伝聞でない、信頼のおける歴史書というのは、ちょっと古い時代になると少ない。そして、それが一つしかないとなると、いきなり事態が難しくなる。そういうものはたいてい次の時代の政府によって管理されてきたもので(だから長い時代を超えて現存している)、そうすると、その政府に都合のいいように、人物や行為が潤色されていたり、場合によっては細部では事実にさえ都合のいい嘘が混ざっている可能性がある。
二つの異なる視点からの歴史書があって、その間でチェックをかけられるといいのだけど、それすらできない時代が過去に横たわっている。でも、その時代にも我々のご先祖様はいたことは確かで、細部は分からなくとも大きな流れや道標となる大きな事跡は残っている。そういう時代のできごとすべてを「歴史ではない」と投げ捨てるのは、それはそれで知の立場からするともったいない。 そういう葛藤の中で深めていくのが歴史ではないか、だというわけだ。
日本の場合、古事記・日本書紀の時代はものすごいよね。そこをどう考えていくのか。
それができていない人を、「文系」とは個人的には呼びたくないなあ。