2023/03/01-2023/03/10
第三者にとって、かんばんがどこにあるのかわからないからな。
押し出しファイリング
物リマインダー
かんばん
todoリスト
時間割
ペッグ
記憶の外部化
シンボル化
マテリアライズ・タンジブル
トリガー
「見える化」よりももう少し狭い言葉がほしい。
自制
発信
出世
のトライアングル、あるいはピラミッド
国防的な考え方と合わせてダイアモンド?
勇気と好奇心を高校生のチャレンジには持ってほしい
クロ現などの
番組に寄せられるコメントツイートは否定的ばかり(まあ、番組自体が、「こんな風に困っている人がいる」というトーンで放送しているのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが)
しかし、なんでも「いいんじゃないですかね」というのも違う
幸あれ、と祈るのがいいだろうか。
ある程度は、そうなっている経緯や、簡単に大きく変えるわけにはいかなくなっている構造を知って、「仕方ないよね」と思っていくのが、妥当だろうか。
陽キャとは、押しが強いことではなく、周りから受け入れられていて、そのことでさらに幸福感が増す人のことなのではないか。
健全な増幅サイクルのある、相互依存。
じっくり決める、というと、現在苦しい人が、いつまでも現状を保持させられることになる。そのあたりが、抑圧されたマイノリティーには、不満かもしれない。
思考の反射板いろいろ
覚えておく、検索する、人に話す
ゆとり教育が人々に危機感を与えたあと、詰め込み教育が再評価されていたけど、またじわりと
自虐史観という言葉にもゆり戻しが来るだろうし、
構造的弱者を、分断することなく前向きに、でも世の中の常というものを理解させることはできないものか
少子化対策で大学無償化したら、子を思う親の気持ちと競争社会の差別化戦略はどこへ向かうだろうか
▷カット野菜を買ってきて、野菜炒めを作る。注意書きに、「軽く水洗いをしてからのご使用を推奨します」というようなことが書いてある。まあ、ザルに空けて水をかけて切るだけで、手間がかかるわけではないのだけど、少しでも水を使うということは、炒め物には不便なんだよなあ。
▷毎日、同じことを同じセットで繰り返す。あるいは、いつも同じ道具を買い、使う。
別にそんなことをしたって、運命の不確実性が下がったり、世界の不定形性が収まったりはしない。
でも神経的・主観的には違う。翻弄されるばかりだった生存サイクルのスクリーンに、コントロール可能な一隅が生まれる。
▷昔は、そういうものが、計画経済寄りの全体主義の恐怖として語られていたような気がしますが、冷戦崩壊以降の資本主義の爆走で、すっかり資本主義側の所作になってしまった感じ。
▷RTしたくなる理由の一つは、頭の中でもやもや感じていることを、精度高く言語化するのは結構手間だということ。
もやもやすること全てに、言語化できるほどのエネルギーと時間を割くことはできない。
▷し、質問やクレームが来たときに対応できるほどの知識を持てないから、自分が矢面に立ちたくないから、というのももちろんあるよな。
▷「大衆の」「感情」なんて、そりゃ役に立つわけないではないか。
▷賢人政治とテクノクラート支配
「黒人を見たことがないという理由で視線を集めることはありますが、ただ一つ違いはというと、誰かが僕を見た時に人々の目に憎しみがないということです」
仮面を持たない人は、他人の表情をそのまま受け取るだろう。
自らの立ち振る舞いを直情的なものから少し切り離せば、自分の想像力も少しだけ間接的なものに思いをはせられるようになる。
人はやむにやまれる状況の中で、自分の気持ちを素直に表情に出せないことがあるのだ。
それでもその人を知りたいと欲するならば少しでも手を伸ばすしかないという態度の確立である。
ちなみに次の段落は Notion AIに書かせた。
《年齢を感じる瞬間はいろいろある。たとえば、学生時代に好きだったバンドのメンバーが次々と亡くなっていくのを見ると、自分も老いているんだなと感じる。でも、感じるだけでは仕方がない。老化は現実だから、できる限り元気でいることが大切だ。元気でいるためには、食事や運動、睡眠、ストレスマネジメントなどが必要だ。自分自身を大切にし、健康的な生活を送ることが大切だ。》
あほみたい。そんなわけで毒々しいブログは手書きの時代が続くだろうか。
オーストリア・ウィーンのレオポルト美術館で開催中の「男性ヌード写真展」で18日、約250人が来場し、裸で鑑賞を楽しんだ。
3月4日まで開催期間が延長された同写真展は、アートの歴史における男性ヌード描写の変遷と多様性がテーマ。昨年10月に展示会が始まった際には保護者や宗教団体から非難の声が上がり、
来場者も裸になるという取り組みは、ドイツ人ヌーディストグループからの要望で実現した。
今回が2回目の鑑賞だという男性は「自分を解放するのはいいこと。裸で裸の写真を見るなんてパーフェクトだ」と語った。
⇒???
「人と関わって生きる中で、当たり前に生まれる共感や同情、善意が、人々を戦争に前のめりにしていったことです。例えば、妻に先立たれた男性が、子どもを残して戦争に行く状況で、近所の人が『なんとかしてあげなきゃ』と動いたり、シンパシーを抱いたり。そのさしのべた手が、人々を戦争に参加させていく。そんなことが見えてきました」
「美談には『おまえたち、ちゃんと戦地に行かなきゃだめだろう』と大声で叫ぶような人は全く出てきません。全員がいい人なんです。それがショックでしたし、動員の怖さです」
その時代においてキリスト教や神の存在についてパスカルのような人間がここまで真剣に議論を展開しないといけない状況だったんだな、ということは読んでいて痛切に感じられました。
パスカルは1600年ごろの人間で、ルターによる宗教改革の直後の時代を生きています。別の宗教だけでなく、同じ宗教内での論争が激しく行われていて、"神"や"奇跡"、そして"教会"に対する心理的な基盤も揺らいでいたのでしょう。パスカルの執拗なメモ書きからは、そうした時代的な状況を読み取ることができそうです。
⇒西洋の哲学は神とか存在とか言語ばかりで関心を呼ばないなあ、と思っていたけど、それだけの切迫性が、彼らには、やはり、あったわけなのだな。
鄧小平が国家主席になって中国の立て直しを図っていくのですが、その中でできるだけ自身の死後もうまくいく、システマチックな制度を作ろうといろいろ設計していました。
それが集団指導体制とか、あるいは共青団システムといって、共産主義青年団という若手養成の組織を作りました。これは胡耀邦(こようほう)という鄧小平の右腕的存在が中心になって作った組織ですが、10〜20代の優秀な若者が推薦されて入団し、優先的にいろんな経験を積ませてそこから地方の行政実務や、中央官僚の実務もこなして出世し、党中央委員、政治局員になり、政治局常務委員を輩出するというシステムになっています。
つまり、政治局常務委員に出世する人は、行政経験が豊富である、中央官僚の仕事もしたことがある。他のポジションでもいずれ総理になる人は副総理にして経験を積ませる、いずれ総書記になる人は中央弁公庁で、党中央の秘書みたいな仕事をする、中央組織部で人事を経験させるといった流れで、有能な官僚を育てていくことになるんです。
ところが習近平が権力を握ってからの10年で何が起きたかというと、
広東省は商業・貿易都市で日本の自動車会社もたくさんあるんですが、そういう場所では潤滑油的な腐敗というか賄賂・接待やキックバックなどが日常茶飯事なんです。不正は排除した方が良いには良いですが、広東省のトップをしているとどうしても利権とかいろんなものが絡んで、清濁併せ呑むというかたちで、否が応でも関わらざるを得ない部分もあります。 そして重要なのは、今回政治闘争に破れた胡春華、汪洋もまた広東省のトップをやっていた時代があるということです。彼らが汚職に関わっている証拠を李希に掴まれている可能性があるんです。
習近平が胡錦涛に関して「茶っ葉売りの息子が共産党トップにふさわしいのか」と言ったそうなんです。胡春華は貧農の子ですから、なおさら出世がゆるせないでしょう。
倉本:アニメの悪役みたいなセリフですね。
福島:共青団の理念から言えば、農民だろうが商売人の子どもだろうが普通の公務員の子どもであろうが、優秀であれば党の指導者になれるというという考えですが、血統主義を重視する習近平にとっては不満だった。なので共青団派をパージしたのではないかと見られています。
福島:私も彼の地位は必ずしも確立されきっていないと見ています。そもそも本当に権力が安定しているなら粛清する必要がないんですよね。北朝鮮でも最近は金正恩による粛清の話を聞かなくなったじゃないですか。
倉本:ああ、それは確かにそうですね。まだまだ粛清しまくってるということは権力が確立できてない証拠ということなのか。
不満は燻っている。それを習近平もわかっているので、香港をイギリスから返還させた鄧小平、国を作った毛沢東と同等以上のレガシーとなるような絶対的功績を残したいと考えているのです。
また中国では対外戦争が権力の掌握には重要だという考え方があり、鄧小平もベトナムとの戦争(1979年の中越戦争)を通じて軍を強くできたという事例もあります。となると「やはり戦争だ」と思っている可能性がある。少なくとも、事あるごとにそういう風に見せかけていますよね。
福島:文革では高邁な理想があって「造反有理」と叫んでいたわけではなくて、あれは毛沢東による権力闘争の一環として大衆運動を利用しようとしたわけですが、今まで抑えられたものがコントロールを失い、法律などで「やってはいけない」とされていたどんな無茶、不条理なことでもやって良いということになってしまったわけです。
例えば親を殴るとか学校の先生をつるし上げるとか、そういうことをやってもいいよと。上司がいつも食べているようなおいしいものを食べてやろうとか、きれいな嫁さんを俺も欲しいみたいな、力づくで奪っていいんだという集団ヒステリー的な雰囲気が巻き起こってしまいました。持たざる者たちに対し「敵はあいつらだ、奪ってしまえ」と独裁者が言えば、本来独裁者に向かいかねなかった矛先が、中産階級だとか、台湾だとか米国だとかに向くということです。
倉本:なるほど。中産階級同士でのある種の合意的なもの自体が、下層の人からするとしゃらくさく見えるというか、そうした既存の体制をブチ壊していく「英雄」に喝采を送っちゃうような人が
そういう国内の経済的分断が習近平の権力や、台湾への武力侵攻策を支えてしまう可能性があるということですか。
福島:そういう部分もありますよね。文革の評価も知識人から言うと「二度と起こしてはいけない歴史的な厄災」だけれども、田舎の農村で話を聞くと「楽しい思い出だった」と言う人もいるわけです。
下放(下郷運動)で都会からイケてるお兄さんお姉さんがやってきて自分たちの下で働いてくれる、毛沢東は太陽だと書いたら拍手されて大学に入学できる。列車に乗って北京に毛沢東に会いに行くみたいな大修学旅行もできたりする。
倉本:習近平サイドの大義名分としては、アメリカの横暴に対抗して新興国側をまとめ、自分たちは別の世界観を持っているんだと主張するとか、あるいはグローバリズムがローカルの紐帯を引きちぎって社会不安になってしまうことに対して対抗するといったものがあると言えますよね。
福島:おっしゃる通りで、「本来それが日本のやるべき役割ではないか」と展開したいところなんですよね。例えば日本とイスラム諸国の関係とか、あるいは太平洋島嶼国(オーストラリア、ニュージーランド、フィジーなど)との関係の歴史があるわけです。中にはアメリカ嫌いの国であっても、日本ならオッケーという国がある。
「一帯一路」にも悪いイメージが付いていて上手くいっているとは言い難いです。でも、アメリカも嫌いの国々からすれば「それでも中国の方がまだマシ」というような選択肢を取ってしまう。
具体例を挙げると、例えば2022年4月にソロモン諸島は中国と安全保障協定を結びました。人民解放軍がソロモン諸島に駐留できる口実を与えてしまったわけです。ソガバレ首相のインタビューを読むと、本当にアメリカが嫌いというか、要するに「白人の傲慢さ」を嫌っているのだなとわかります。
それでも自国を守れる警察力ないし軍事力がないという国は他国を頼らざるを得ない。海賊などの反社勢力を取り締まらなきゃいけないけど、沿岸警備隊だけでは無理という国もあります。そこに日本の自衛隊が選択肢に上る可能性もあったはずなんですよ。自衛隊が軍であるならば、日本にそういうことができる法的な根拠があれば。ただ、それを実行するにはそれなりのお金と軍事力も必要になりますし、そもそもそういう発想に至らなかったところもあります。
やはり説得力というか、彼らの思考が未熟で、語るべき自分の言葉をまだ持っていなかった、ということだと思います。
そして語るべき言葉を自分で見つける前に、化石のような昔の左翼運動家のなれの果てみたいな人たちが、彼らの姿に自分の化石のような夢を思い出して、代弁者のように見立てて、そうした語るべき自分の言葉はないけれど、何かもやもやと不満を抱える若者を利用しようとしたもんだから、リアルな世の中に響かなかったのだと思います。香港・台湾の若者からすれば、「なぜ憲法改正に反対なのか分からない」「右とか左とかそんな古臭いイデオロギーに彼らが縛られているのはなぜ?」という疑問を抱くのだと思います。
福島:例えば沖縄の米軍基地問題に関して「きれいな海を守りたい」と反対するのは理解できます。ただ「そのきれいな海を守るための国防はどんな方向性がベターだと思いますか?」という保守派が一番聞きたい部分に関する発言が、非常に乏しかったと言わざるを得ません。
⇒まあ、「軍事を持たないことが非挑発でありえる」「外交で解決を」とは言うだろうけど。
ーー 左派からは「安全保障の強化が必要だったとしても、立憲主義を無視したあの法案内容やプロセスで通して良いと思っているのか」という反論もあるかと思いますが、そもそも保守サイドからすると、意見に賛同するしない以前に「日本の国防をどうしていくべきかという、自分たちの問いに正面から答えてくれない」ことに大きな憤りを覚えるということはわかります。ただそれは「SEALDsメンバー特有の問題」というよりは、日本の左派の少なくない人たち(自分もそちら側だと思っています)が「1ミリも考えなくて良いとは思っていない」と感じていたとしても、それをつい見て見ぬ振りしてしまう、あるいは内部での軋轢のきっかけになってしまうからと後回しにしてしまいがちな部分があるとも正直思います。
福島:私には8歳上の兄がいて、まさに安保闘争世代だったこともあり、私自身その後の趨勢を冷ややかに見つめてきました。これまで学生運動や社会運動をバカにしていたところがあったものの、香港や台湾の社会運動を取材して、初めて「本当に世の中を変える力になるんだな」という確信を得たんです。ここまでSEALDsを批判的に語ってきましたが、私はそうした経験から若者たちによる世論構築の試み自体はすごく重要だと思っています。
⇒そう、学生運動って、冷ややかにしか見れないんよね、基本的なところでは。
例えばメディアの取材で権力の不正を暴こうと思ったときに、時として法のグレーゾーンに踏み込むことがあります。2021年に北海道新聞の若手記者が、パワハラで辞任した学長の後任を決める会議の情報を掴むべく、立入禁止とされた旭川医科大学構内を許可なく取材し建造物侵入容疑で逮捕された事件がありましたが(22年に不起訴処分が決定)、台湾や香港ならメディアは記者を守るために徹底的に戦うというのが普通なんです。ところが、日本では多くの人が「不法侵入した記者の方が悪い」となるんです。
倉本:それは結局、左派的なものに対する信頼度がかなり落ち込んでしまっているというか、香港とか台湾の学生運動のようにリアルな議論ができておらず、それらの意見がそのまま通るのも困るよねとセーブする必要はあった一方、権力や社会がそれ以外の分野でもどんどん抑圧的になってきてしまったという、卵が先かニワトリが先かみたいな難しい舵取りの問題が生じてしまっているのではないかと思います。
川上 最初に、脚本とデモ楽曲がある状態でモーションキャプチャーのリハーサルを行います。
皆さん練習をしてきているので、プレーンな演奏はできる状態です。そこに自分と監督、あとは原作者のはまじあき先生や音楽監修のInstantさんたちが立ちあって、演奏シーンにおけるキャラクターの雰囲気だったり、どこでどういう芝居を足すか、みたいなところを詰めていきます。で、定点カメラでそのリハーサルを撮影した映像を持ち帰って……そこから絵コンテまで1週間くらいでしたっけ?
梅原 そうだね。1週間くらいで川上君や監督がコンテを描いて、ライブシーンの大枠を作ってくる、という。
川上 たとえば、細かいリフがあるところでは手元を抜いてみようとか、このドラムの動きはカッコいいなとか、そういうことを考えながらコンテを切ります。で、それをもとにビデオコンテ(※コンテをムービーの形にしたもの)を作って、そこからモーションキャプチャーの本番に入るんです。
⇒コンテの前に、一回演奏をするのか。
梅原 アクションシーンと日常のシーンって、やっぱり分離しやすいんですよ。アクションシーンが始まった途端に画面映えするカットが次々と出てきて、画面の展開がガラッと変わる、みたいなことがよくある。もちろん、それでいいケースもあるんですが、物語に沿った形でアクションの面白さが力を発揮する場合もあって。
この第6話に関して言えば、本編のコンテ・演出を担当された藤原佳幸さんが、日常シーンとライブシーンをうまくつないでくださって助かりました。先行してライブシーンがある状態で残りのシーンを作るのは難しかったと思います。
とくにこの第8話は、ライブ中に光源が大きく変化するんです。アニメにおいて、カット内で光が変化する表現はすごく難易度が高くて、美術の色が変わるのに合わせて、セル(キャラクター)の色も変えなければいけない。基本的に撮影で調整することになるんですが、場合によっては作画で影つけを変化させなければいけなかったりするんです。
⇒そうか、CGアニメじゃないから、光の変化を手で描かないといけないのか。
たとえば、ステージではアンプから音が流れるわけですけど、アンプは美術さんが背景として描くわけです。一方、キャラクターと楽器はアニメーターがセルで描くんですけど、アンプとキャラクターはどこかで接続しているわけで、どこまでをセルで描いて、どこから美術で描くか。まずその説明が必要になります。
弦を押さえる指の動きまではキャプチャーしていないんですよ。
梅原 モーションキャプチャーの際、演出さんが同時にスマホやビデオカメラで撮影しているんですけど、それをもとに描いています。
⇒だよね〜
⇒モーションセンサーを指一本一本に付けてるのかどうかは、聞いてみたかった。
⇒これを見ると、マネキンには、髪の毛くらいはぶら下がっているけど、色やテクスチャはない。
タワマンの上層階を見上げて心が頚椎症のようになってしまう人もいれば、ときどき意識して、ほんのり羨ましいと思って、でもその程度で済んでしまう人もいる。羨ましいと意識にのぼることがほとんどない人だっているだろう。
他人をじろじろ見るばかりで、「東京」という物語に人生を乗っ取られたかのような人物は、現実にも案外存在する。もちろん『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の登場人物たちほど甚だしいことは稀だが、自分の物語がみえなくなって東京という物語に乗っ取られたような、それか東京という物語に依存しているような状況は珍しくない。 ⇒東京、ほどではなくても、お金と時間(資本主義)、道徳や恋愛教といったものに、頭を乗っ取られて生きている感覚はある。自にも他にも。
器が先に壊れていたのでしかない」と指摘するだろうし、そういう事例もあるだろうけど、皆が皆、そうというわけでもあるまい。なぜなら大学進学や就職あたりまでの時期は、自分の物語が自分でもわからなくなりやすく、社会や世間や他人の物語をレンタルせずにいられない時期でもあるからだ。
何を主張するかというより、言語を使うことの難しさがあると思います。一つの文では一つのことを言うべき、などと言われますが、文を作ることが思考の単純化になってしまうことが往々にしてある。
予想外のことが起きたり、不幸を乗り越えたりすることに、人生の喜びがある。少なくとも20世紀まで、人はそう思ってきたのではないでしょうか。ところがテクノロジーによる先回りが進むにつれて、
⇒競争社会と自己責任がある世界では、そうでもないなあ。リスクを食らった人間が、その後、不利になりすぎる。
だって、とんこつ醤油ラーメンなんて、合理的に考えたら、もう一切食べない方が良いに決まっています(笑)。
わざと愚かなことをする人はいる。それって、そのリスクを知らないからやっているわけじゃなくて、知っていてもやっているんですよ。
人間というのはそういうところがある。というか、それが人間の自由だ!というところがある。
難しいですよね。特に企業とか公的な立場では、あくまでも表で言えることしか言えないわけです。そこは、ギリギリの言い方が重要になってくると思います。
やり始めると、技術的にできちゃうことって、やっちゃうわけです。科学って止められないんですよ。できることを全部やる、行くところまで行く。
だから僕は、ひたすら嘆き続けることになると思います。「世の中悪くなった、悪くなった!」って。
⇒を悪くなった、悪くなった」←うるせえな、だし、千空的に発展に無邪気に肯定的でありたいし。
理系の人たちは、基本的にできることを行うというスタンスなのだと思います。それに対して文系の人間の仕事は、わざと挑発的な言い方をしますが、足を引っ張ることです。文系には、独特の特権性があります。理系は合理的な説明でしか物事を進められないけれど、文系は、極論を言えば、全く根拠のない禁止ができるんです。それが「法」の本質です。法には、究極的には根拠がないんですよ。「駄目だ」と言ったら駄目なんです。
ただそれを、いきなり断定したら独裁になっちゃうから、みんなで議論したという体(てい)を作らなきゃいけないんですね。「議論した」という儀礼的ともいえる満足感が必要です。人間社会は、その文系的な儀礼性によって、ある種の技術的急進主義が激化しないように、微妙にブレーキをかけながら進んできたと言えるんですね。
予防医療の考え方によって、とにかくリスクを減らすように毎日の食べ物をコントロールし、あるいはスーパーの商品がどういう経路で届いて、それがエココンシャスかどうか調べる、みたいな生活では、認知リソースを大変に消費されることになります。人間の認知リソースは有限なのに、そういうことばかり気にし始めたら、古典文学を読んだり、映画の名作を見たりする時間が取れなくなりますよ。 あともう一つ思うのは、たとえばトイレにハエの絵が描いてあって、そこに狙って打ちたくなる、狙って打つと飛び散らないから綺麗になる、というときに、僕という人間を馬鹿にされている感じがするわけです。
これは、社会全体において人間の尊厳に対する見積もりを下げますよね。「人間って、所詮そういうことで誘導されますよね?」という人間観が、社会に蔓延するので。
初婚女性の平均初婚年齢は(夫が初婚・再婚のすべてを合わせて)29.4歳となっています。女性の平均初婚年齢は2011年に29.0歳に達し、その後も上昇を続け、2014年から29.4歳で固定的に推移しています。
さて、この平均初婚年齢の数字を目にした男女の非常に多くが「今の女性は30歳ぎりぎりの駆け込み結婚をするんだな、晩婚化したもんだなあ」「最近は女性でも結婚するのは普通29歳を過ぎるんだから。25歳なんてまだまだ早い」といった会話を平気でしているのを筆者は耳にします。
上記のような会話で思い描いている29歳という年齢は「結婚する人が一番多い年齢」というイメージではないでしょうか。そうであるとすれば、イメージは実態からは大きくずれているのです。
平均初婚年齢からイメージしがちな、一番多くの女性が結婚していそうな「婚姻件数が最も多い年齢=結婚のピーク」を、統計上は最頻値(さいひんち)といいます。このグラフからは、この最頻値は26歳であることがはっきり見てとれます。
もし、平均初婚年齢の29歳過ぎをベンチマークに「28歳くらいで本気の婚活しようかな」と考えていた場合、図表からは婚姻届の6割が提出されている年齢からのスタートとなります。また29歳で婚活開始となると、翌年の30歳には、提出された婚姻届が7割に到達する年齢になりますので、短期決戦・大激戦覚悟の参戦になる、といえます。
「結婚のピーク年齢が、平均初婚年齢より3歳も若いなんて! それじゃあ25歳で婚活開始でも、全然早くなかったじゃない」と怒りがこみあげてくる女性もいるかもしれません。これは結婚年齢の平均の罠にはまってしまっていたからだ、といえます
⇒中央値、最頻値、平均値……。