2022/06/11-2022/06/20
骨盤
雑なノート
用語や定義のメモやクリップのページ
を作りたいのだけど、便利に引用できるページがなさそう。
俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。
私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。
人々が「なぜ芸術が必要なのか」と問うのに対して、私たちはハードな情報のやり取りだけでなく、感情を込めたコミュニケーションや気持ちを伝え合うことが重要で、そのために小説や映画、音楽を作っている、と言ってきました。
しかし、感情やフィーリングのみ重視され、先の大統領選のように「選挙が盗まれた」と感じたから暴動を起こしてもいい、という発想が出てきてしまうと、私たちのような仕事をしている人たちが状況を悪化させてしまっているのか、と考えることもあります。
東大寺のお水取りの五体投地すごかった、私がオタク文脈で使う五体投地と全然違って凄まじい迫力だった。うまく描けないけどこういう感じ
日本人好みの、夕鶴に代表される「恩返し型押しかけ女房」です。
我の弱い男は、自分では稼ぎを取ってこられず、女性に言い寄る強さもないので、子孫を残していくにはこの形がある種の理想型なのです。
現代のような個人主義社会でサバイブするには、とても心がやさしく受動的です。押しかけられたら言いなりです。でも日本人はこういう心根を愛するものなのです。
⇒ふむ。日本人か。
⇒「楽して、儲かる」的に、生物の快楽欲求に忠実だから、人類種にも誰にでもウケる、みたいなことを考えるけど、主語を広げすぎかもしれない。
案外、文化差があるかもしれない。
⇒テレビドラマの脚本家が小説に挑戦、という位置づけにされてしまう本だと思うけど、読むとむしろ藤子・F・不二雄短編みたいな味わいがどこかある(あれの"S"(サイエンス)をなくした感じ、ではあるけど) 本筋ではないけど、抜き書きメモを作る。
そんなに遠慮がちでもなく、といってこれみよがしではなく。いいながら自分で陳列を見て歩くと、私が無理をいっているのだということが分った。ないものねだりをしているのだった。
やっと手に入れた独り暮しを、なんとかしようと思いながら、その型がつかめず、地味だと不満で、派手だとひるんで、ありもしないなにかを求めている自分がよく分った。
異国の旅をすると、土地の言葉が出来たら、どれだけ世界がひろがるだろう、と思う。気軽に人に話しかけ、女も落せるだろう、などと。
しかし、言葉が出来てみれば、そう気軽に人に話しかけられもせず、女も落せず、おのれの人格の枠から一向に出て行けないことを思い知るようなもので、離婚で四十男の人生が、そうそうひろがる筈もない。
なんという生活をしているのだろう。次々と目前に現われる出来事に反応し、一時的に興奮し、しかしそれらは次々と遠くなり蓄積にはならず、また私は次々と新しい日に反応して成熟もなく、気がつくと老いさらばえているのだ。
バブルはとっくに崩壊してるのにバブル残滓だけ残ってた。
上の世代の頭が切り替わってねーのよ。
今もちょっと残る「非モテ」みたいな議論も
主にはあの時代に青春送った人たちの苦情だと思う。
80年代バブルのイキり文化のウンコの残り香だけが漂ってたせいで
当時は男への滅茶苦茶高い要求を煽るようなメディアばっかりだった。
そんな俺達のネットのテーマはとにかく反メディアだったよ。
わかるだろ?
今とは環境が全然違ったんだ。
今じゃもうやってたやつ全員中年だけどさ
韓国とか女の娯楽とかすげー敵視するムードあったじゃん。
あれも何かって反メディアなんだよね根本。
「スイーツ(笑)」みたいなのも甘味がどうこうって話じゃなくて
「たかが甘いもんを雑誌文化の提唱するままスイーツなどと呼んで紹介された店へ出かけて貪り食うメディアに踊らされるバカ女」
って意味なわけよ。
ただのコリアンレイシズムや女へのヘイトになっちゃうやつはいたが。
俺達は車が嫌いだし酒が嫌いだし恋愛が嫌いだし女が嫌いだ。
極端に当時の気分を言えばそんな感じ。
ただイケ(笑)っていうのも反メディアだよ。
メディアなんだよ。
そうやって恋愛をどんどん高値にしてシバキ式に憧れを煽れば
世間は必死に食いついて消費すると思ってた(バブル脳)。
マスメディアも嫌いで嫌いで滅茶苦茶叩いて疑ってネットを伸ばした。
テレビも新聞も雑誌も当時の支配力と比べりゃ見る影もない。
まだ力あるじゃんて思う人は往時の力を知らないか忘れてる。
24時間テレビでゴミ拾いする予定地をネット有志が先にきれいにしてやったりね。
当時はあらゆることがメディアの陳腐なセンスと加工で覆われてたから
ああやって風穴を開けることに意味があったんだ。
今の若い人に意味が伝わらなければ社会はそれだけよくなったってことさ。
貧しくなってることはかわいそうだと思うけど社会の空気はましになってるような気がする。
⇒すべてが “反メディア” でくくれる、と。なるほど。
すごいな。
⇒私には、90年代は、この匿名はてなのツリー上位はてなのように(タイトルしか読んでないけど)、「あの頃は良かったなあ」と思いながら思い出す感覚もまた、ある。
ヒットチャート賑やかだったし。バブルははじけ終わってたとはいえ、まだまだ呑気だったし。(BRICの台頭がまだだったし、9.11もリーマンショックもまだだったわけだから)
何より、当時はまだこどもだったからな。
⇒ただ、オタクではあったから、当時のそういう空気に前向きにノれたかといえば、むしろ疎外感を感じていただろうけど。
今の自分をなんとかしたいと思い、近所の図書館で読書をし、運動をして規則正しい生活をすることにした。日々の行動も記録しはじめた。やがてそれは分単位での行動記録にエスカレートし、そのログを分析するために簡易プログラムまで書いた。 次にネットをみる頻度を減らした。リアルな人間関係が極端に薄まった結果、ネット上の言葉とうまく距離がとれなくなり、ネットの悪意に飲み込まれそうになったためだ。やがて文字そのものを徹底して読まないことを実践してみた。2、3日で、頭の中が静かになった。いかに日々、食べた言葉を消化することに頭を使っていたか実感した。思考と呼ばれるものの大半は、じつは食べた言葉の消化で、食べる言葉の量を減らせば思考の量も減ることがわかった。 封印されていた記憶の蓋を開けるのは危険極まりない行為だった。両極端な感情が噴出して不安定になったのだ。前に鬱々としていたのは一種の安定状態だったことがわかった。そのうち記憶そのものと、記憶に付着した情念の違いが理解できるようになった。ネガティブな感情を書き出してしまうと、大掃除をした後の部屋のように、頭の中が澄み渡った。後に洗脳の手法のひとつに記憶の書き出しがあることを知った。 怪談というのは恐怖を一箇所に閉じ込める仕組みではないかと著者は考える。そうすることで、世界のすべてが恐怖として全面化することを防いでいるのではないか。幽霊に怯えるのにも、実は安定した自己が必要だ。意識と肉体は当たり前のようにつながっていると誰もが思っている。だが、鏡に映る自分が知らない人間に思えた瞬間のように、その根拠がぐらつくと強い恐怖が生まれる。
つまり、文章に限らず、何かをつくるときには「まず作り、それから削る」という順番が重要になってくるのでしょう。それは理解できます。
しかし、もし私がそういう抽象的なツイートをしていたら、おそらくここまではバズらなかったのではないでしょうか。「文章において」というある具体的なレベルで記述したからこそ、得られた反応の多さだと推測します。
その意味で、具体と抽象とは面白いものです。きっと人の心に訴えかける「ほどよいレベル」があるに違いありません。
たとえば、「羊たちの沈黙」は映画のタイトルだが、これはカードのタイトルとしてはふさわしくない。それを見ても中身がわからないからだ。むしろ、「元精神科医の囚人に導かれてFBIアカデミーの実習生が連続猟奇殺人事件を解決する物語」
⇒近年のラノベっすね。
はっきり言って、この工程は簡単ではない。面倒である。ときにはCPUのファンが駆動するくらいに頭を使わなければならないだろう。
アプリを立ち上げて、そこに「知的と行為的」と書きつけた。ものの5秒ほどの話であり、知的な苦労は一切ない。
そうした「ひらめき」は、ほとんど自動的に(言い換えれば受動的に)訪れるものだし、
その着想を「走り書き」で書き留めるのはスプーンで砂糖をすくうくらいに簡単な行為である。
走り書きメモであれば、その着想のどの部分を書き取っても構わないから、選ぶのも難しくない。他の着想と識別できる、ある種の「トリガー」でさえあれば十分なのだ
「羊たちの沈黙」であれば、生物学に関する映画である可能性も残されいる。しかし、「元精神科医の囚人に導かれてFBIアカデミーの実習生が連続猟奇殺人事件を解決する物語」となってしまえば、その物語の幅がひどく限定される。
その意味で、はっきりしたタイトルをつける行為は、「アイデアの可能性を限定する」行為なのだ。これはちょっともったいない気もするし、先ほどの面倒さも合わせると、あまり意欲が湧いてこない行為でもある。 勉強が出来過ぎてしまう人・地元の人間関係へのおさまりが悪い人を除けば、せいぜい県庁所在地までの生活圏で満足し、暮らしを完結させてしまう人のほうが、地方ではマジョリティなのだ。
とはいえ、地方在住の若者だって娯楽を求めてはいるし、親元を離れて暮らしたいと思うことだってある。
そうなった時に、「世界」としての地方都市の大きさ、「入れ物」としての地方都市のキャパシティが問われることになる。
この点で言えば、たとえば私の第二の故郷である松本市は、人口規模が小さいうえにやや手狭で、なにより、東京に近すぎるのがいけない。
なんというか、東日本の地方都市は自己完結しているというより、東京の出先として、東京の衛星都市として、東京の影響下に留め置かれているように感じられるのだ。
情報網や交通網の発達した現在では、東京の重力はもちろんどこにだって伝播する。
「呪い」と言った理由は、「自分と同じ苦労を部下にも……」を引き継いでしまう人の大半が、本心からそうは思っていないことが多いからです。
ずっとそのやり方で何十年も働いてきて、周りもそれを当たり前と思っている環境では、ルールを壊すのはとても難しいし、余計なことをすれば今の立場を失うかもしれません。だから、なかなか呪いを振り払うことができないのです
「若い世代は仕事をなめている」「ちょっと厳しいことを言うとすぐ心が折れる」「仕事に対する情熱が足りない」など。これって先ほど書いた「最近の若い人が離職しやすい話」に出てくる「価値観の違う若者像」によく似ています。「上司が考える部下が辞めていく理由」って、昔も今もそんなに変わってないのだと思います。
実際にいじめやパワハラをしている上司もいたし、本当に仕事を甘く見ていて、情熱を感じられない若い人もいました。若者からすればそういった上司は苦痛でしかないし、上司からすれば、今まで作り上げてきたものを壊されたくない気持ちもあったと思います。
ところが、職場では「どちらにも当てはまらない層」が一番多いです。部下と問題を起こさない上司もいたし、きちんとした評価をされて長く会社に勤めた若い人もたくさんいました。
でもそういった人たちはとくに問題はないので声は上げませんし、うっかり口を出して自分たちがまきこまれたくない気持ちもあるのか、こういう問題には、あまり触れないようにしていた気がします。
問題のある上司も部下も、「我が強い人」が多いと思いました。話を聞くと、そういう人に限って相手だけが悪いように言います。問題の原因が自分にもあるとは認めたくないのです。
そこで、当たり障りがない理由となるのが「世代のせいで価値観の違う上司や若者」です。
若いだけで堪え性がなくてすぐに仕事を辞めると思われたり、年が上なだけでパワハラをすると思われたりしたら、たまったものではありません。
『(その時は)彼が○○だと思った』を日本語で表す時、『彼が○○だったと思った』とはあんまり言わない。これは発話者がそのエピソードの中に入って喋ってる位置関係。
英語でいう『thought he was〜』は、発話者が現在から動かない。
だから I thought he is〜 にすると(その時点での)未来を予知してるみたいになっちゃう。常識的に無理だからwasのことだって分かるのはその通りだけど、isでいいじゃんてのは発話者の立ち位置をホイホイ変える言語(日本語とか)に慣れてる人の発想かなぁ。
『発話者の立ち位置をホイホイ変える』ってのがぴんと来ない人は、小さな子供がいる家庭で各員がどう呼ばれるか考えてみてください。
親が、長男のことを、お兄ちゃんとか呼ぶでしょ。一番幼い子の視点で言うんです。自分の子供を兄とか姉とか言うの。
「ロスジェネvs上の世代」という世代間対立が、テレビや新聞など「第四権力」としてパワーを誇ってきたマスメディアへの反発と重なりあい、それがブログの盛り上がりに乗っかるかたちで一気にネット言論を大きくしていったというのが、この時期の流れだったのではないかとわたしは捉えています。