2022/06/21-2022/06/30
注意スキーマ理論
スーパーボウル、脳内の名声
眼からビーム、100分の一ニュートン
P117/357
たまたま動物園にいるのでなければ、遠くに黒くて毛のあるものがぼんやりと見えたとき、「ゴリラ」と答える事前確率は非常に低くなるはずだ。(中略)
しかし、動物が近づくにつれ、視覚信号の信頼性と情報量が増すと、あなたの脳の推測は、大きな黒い犬、ゴリラの着ぐるみを着た男、実際のゴリラという一連の選択肢を辿る。ついに、あなたが自信を持ってゴリラを認識したときに、まだ逃げるのに十分な時間があることを願うが。
⇒これは、単純な意味での「正常性バイアス」の話ではないな。脳の知覚システム自体が、過去の積み重ねてきた経験をもとにした推測から、認知を組み上げる。危機意識とか、そういうレベルではない。 ⇒あらかじめ実験の内容を説明されていれば、準備電位が早く出るのは当たり前、なるほど。
意思の力を鍛える
多数決を調整する
感情に反応しにくくする
鍛えるというよりは、実際には習慣という感じ
住民投票で大切なのって、最後の投票するときじゃなくて、そこに至るまでのプロセスなんですね。
中略
千葉 考えるようになる? 國分 そう。誰かが「考えよう!」と呼びかけたって、誰も考えないですよね。
「多くの加害者家族の方は、非常に常識的な人なんですよ。私より全然、真面目だなと思ったりして。逆に言うと、ちょっと常識にこだわりすぎる。世の中にある、ある種の多数派についていくタイプというか。たぶん、普通の生き方をしていれば不幸にはならないっていう思い込みがあると思うんですよ。みんながやっているところについていったら、悪いことはないだろうという。でも私は逆に、そこに落とし穴があるような気がしています」
とはいえ「普通」の大人が、自分の子どもを虐待死させるとは思えない。なぜ「普通」の大人である勇一郎が、想像を絶するむごたらしい虐待を行ってしまったのだろうか。
「うん、だからやっぱりね、巡り合わせですよ。
1960年代末に最高潮に達した学生運動は、中心的な世代が大学卒業を迎えるのと同時に退潮し、連合赤軍事件やたび重なる凄惨な内ゲバなどがとどめを刺して、70年代前半に一気に終了してしまいました。団塊の世代の若者たちは、70年代に入って就職していきます。しかし学生運動に携わっていた人たちは一般企業への就職に苦労し、思想的な問題に比較的寛容だった新聞やテレビ、出版などの業界へと多くが流れ込んでいったと言われています。
マスコミと同じぐらいに、学生運動の受け入れ先になっていたのは公務員と教員、そして生協だったと言われています。
収集するデータが決まり、私たちが考えていた作業の工程はざっくり言うと次のようなものでした。
まずは、データの収集です。
⇒死亡フラグのような前置き(笑)
⇒こういう、紆余曲折が、探検とか自由研究っぽさがあって読んでいて非常に楽しい。 オープンデータにして、誰でもダウンロード可能な形で公開している県の場合は簡単でしたが、多くは、情報開示請求や情報提供依頼の文書を送付するなどの対応が必要になりました。
普段はデジタルデータを扱わない職員も多いため「シェープファイルを提供して欲しい」と伝えてもなかなか理解してもらえないケースや、提供されても必要なファイルが揃っていないケースもありました(GISソフトで描画するには、.shp/.shx/.prj/.dbfのファイルがセットで必要なところを.shpだけを抽出して提供されたために描画できず再度提供を依頼することも)。
自治体では紙やPDFのデータしか持っていないため、シミュレーションを実施したコンサルタント会社に問い合わせてもらい、会社から直接データを提供してもらうこともありました。
やりとりに時間がかかり、最終的には直接訪問して提供してもらったところもあります。
フォルダ構造やデータのフォーマットを具体的に示しています。
それに則れば、今回は、提供されたフォルダのうち、上の図の赤い矢印で示したフォルダ内にあるファイルだけをピックアップするよう指示すれば必要なものがそろうはずです。
ところが、提供されたフォルダを開いてみると、都道府県ごとにフォルダの構造はバラバラ。ファイルの名前も
「○○さん整理後」
「←これです!」
「※最新」
などといった記述になっていました。作業の過程で担当者が見てわかりやすいように付けたものが、そのまま残っていたものと思われます。
⇒人間が作業する以上、“ノート”はどうしても必要になる。しかし、構造化やグルーピング、メタ情報を「入れ子」「階層」でしか実装できないのなら、一切のノートを許さずに、図書館式構造を作らなければならなくなる場面はある。
ある担当者が発した「最終成果物は紙なんです」という言葉が印象に残っています。問題の根底にある考えを端的に言い表しています。
これまでは紙に印刷して配ることがゴール。途中経過のデジタルデータは重要視されてきませんでした。そのため、取材の中では、コンサルタント会社に浸水シミュレーションを委託しても「納品されるのはPDFだけ」という自治体がありました。デジタルデータを書き出して手を加えたものをPDFなどで公開しているために「公開しているPDFと一致するデジタルデータがそもそも存在しない」という自治体もありました。
⇒ここまでではないにしても、公文書的に、「電子署名を入れて固定化したPDFが正式最終文書」ということになっていることは多いと思う。
しかし、その発行自体がある程度ルーチンで、翌月とか翌年とかに、それとよく似た内容と見た目の文書を作らなければならないとき、ワード版が残っていないと難儀する。
そして、そういうファイルとなると、「最終版の最終版の最終版」みたいなファイル名になるし、署名PDFとの保管の仕方の区別も課題になる。組織ってしんどい。
⇒そういえば私は、「NHKは受信料の取り立てを税務署に委託しちゃえばいいんじゃないの?」(税金で運営する組織に変えちゃいなよ、もちろんEテレもそのまま維持で)ってことを思うこともあるけど、税金で雇われる人たちだったら、わざわざこんなことをしただろうかと思うと、いろいろ思うことはある。
「延長線上にない世界」とは、誰もが予想しなかった地球規模の重大な出来事が次々に起きているということを比喩的に言っていることがわかる。
「力による一方的な現状変更」とは、戦車やミサイルなどの武器で力の弱い国を一方的に攻撃し、侵略して自分の国の領土にしてしまうロシアの行為を非難する時に使う慣用句だ。
「権威主義的国家」とはロシアだけでなく中国や北朝鮮のことも暗に指しているのだろう。それはいいとして、「気候変動」「地殻変動」「構造変化」と立て続けに大仰な言葉が出てくるのはどうだろう。さらには「停滞」「災害の頻発化」「激甚化」「難局」とマイナスイメージの言葉を畳み掛けてくる。大変な危機が日本に押し寄せてくることを強調するために、熱量の高い言葉を選んでいることが伝わってくるが、これでは読んでいるだけで胃もたれしそうだ。
もう一度考えてみてほしい。「輸入資源価格高騰による海外への所得流出」などという言い方は庶民の日常会話の中には絶対に出てこない。政治や経済に関する新聞記事をある程度読んでいる人も一瞬、頭の中で整理してからでなければ理解できないのではないか。
石油や小麦など輸入品の値段が上がり、数十年ぶりの円安もあって、貿易の赤字が続いている。国民の生活や企業活動にも深刻な影響が出ている。国政にあずかる中央官僚や国会議員たちは毎日こうした問題に頭を悩ませ、打開策を論じている。だから、わざわざ説明しなくても「輸入資源価格高騰による海外への所得流出」とギュッと短く凝縮した言葉を使えば全体状況について共通の理解を図ることができる。むしろ、くどくど説明すると時間がもったいないばかりか円滑なコミュニケーションが阻害される。いわば「記号」として縮めた言葉を使う方が便利なのである。
ただし、それをすんなり理解できるのは官僚や議員、政府の審議会や検討会の委員を務める人々、担当の新聞記者くらいのものだということはわかっておいた方がいい。
ふつうの渋谷と奥渋谷の位置関係はどうだろうか。奥渋谷はどのように「奥」なのか。
そのために、ぼくの運営する「どこまでこの街?」というサイトから、みんなの思う「渋谷」の範囲を抽出して「奥渋谷」と重ねてみた。
都内の他の「奥」について調べるまえに、まずは既存の奥について整理してみることにしたい。地名として古くから受け入れられている奥はたくさんある。
・奥飛騨
・奥多摩
・奥入瀬
・奥久慈
・奥日光
・奥秩父
ようするに山奥だ。街から見てより山の奥のほうにある。これを「外へ向かう奥」と呼ぶことにしよう。
「内へ向かう奥」
別の見方もある。以前「駅と駅の間のどの街とも言えない感」という記事を書いた。
みんなの思う「渋谷」 や「新宿」の範囲を、山手線の各駅について描くと、駅と駅のあいだにみんながどの街とも思っていないスキマがあるのだ。
渋谷じゃないし、かといって代々木八幡でもないというスキマをうまく「奥」が埋めてくれる。そんな役割もあったりしないだろうか。
「絶対にムリ!」なのは自分だけのように考えていたのです。
それほどまでに私は他の人を「強者」だと感じ、自分は相対的に「弱者」だと思っていました。
人間が風邪をひくのはしようがないことです。私1人が風邪をひくなら、これはもう少し何とかしようとも思いますが、風邪をひくのは私だけではないのです。
同じように、家族の機嫌が気になってしようがない人が「大勢」であるなら、そんなにどうにかしようとがんばらなくてもいいわけです。
「ご機嫌取り」がさほど理想的なふるまいでなかったとしても、やむなく受け入れるのまでムリとは言えない、と考え直してみたわけです。
解像度を徹底的に上げて、ちまちましたことを考え続けることは言葉を溢れさせる動力にもなります。ここは逆説的なところで、ちまちましたことを書けば書くことが始まるのだけど、ちまちましたことにとらわれて書けなくもなる。解像度というのは両義的なんですよね。
我々は常に、前の世代が「Shit」と見做したものを拾い集めることからしか始められないし、そこから書くための動力を得ていく。
何か大きな決意をして変化するというわけではなく、神経質なことをすることにだんだん疲れてきて、自ずと自分の中にあった太いストーリーと向き合わざるを得なくなってくる。人生の折り返しにくると、もうこれをやって死ぬしかないという心境になってくるというか。だから、解像度の高いものが作れるうちはその仕事をやって、あとは自然の流れに任せれば良いんじゃないかな。
建前的な正しさに対する批判的な視点は必要だと思うけれど、ああいうのは鬱々とした若者のパンク的な思想というか、イキリみたいなものかなと。
おいしいものを食べたりするほうが大切です。異端的でありながら明るく生きることは可能だということも、『現代思想入門』で伝えたかったことの一つです。
前から不思議なんだけど、不況になると「景気刺激策を!」「公共事業を」って事になるよね。あれってなんで土木・建設限定なんだろう。保育士さんを養成して保育所を開設する、というのでは雇用創出にはならないのだろうか?