2022/06/01-2022/06/10
「個別に判断し、対処していく事象だと考えます」
≒「根本的で本質的で体系だった解決や介入、支援はできない事象です。仕方ないですね。
またそれゆえに、支援に漏れやムラはあるでしょうし、先回りした対処はおそらくできないと思います」
ただ、そういうものが世の中には多いということ。
少し前に、何かで、今の若い人は、制服ディズニーとか、型通りの青春というのをプロデュースのように取り込む、というような話を見かけた。
なんかそれは、礼の思想みたいな感じがする。
「世間なみの幸せな青春の型を満たしていたけど、内心は空虚だった」みたいな私小説が出てこないかな。
うちあわせCast
考えるリストと実行のリストが分かれているほうがいい、案外紙のほうがいい、という話になってしまうと、統合した「それ用のアプリ」というもののは可能性を認めることになってしまうし(まあ、ノートブックを分けて、“運用”で混ぜなければいいんだけど…)、そもそも名前を付けた統合運用手法というのが必要なのかも疑わしくなってくる。
戯画化していってしまうと、新年の抱負とデイリーリスト、だけがあればいいことになっていくわけで。
さらに、デイリーリストに司られる、「生活」というのは、誰でもやっていることだよね?
という視点で見ると、「ときどきは広い視点で自分を見つめ直そう!」という、すごく啓発書っぽいメッセージ性が析出してくる。
「妻が用事を言いつけてきたらどうしよう?」と不安がよぎると、書けなくなるものです。実際、庭に水をまかねばならなかったのです。
他にも、知り合いが私の記事を読んで、よくわからない言いがかりや批判をつぶやいていたら嫌だな、とわずかでも思うと、気が重くなります。
「そうされないような記事を書こう」などとしたら、お手上げです。「批判されない記事を書く」などというモチベーションは、私にはないからです。
庭に水をまいていたって、蚊に刺される不安がよぎります。蚊除けスプレーは、肌を傷つける不安がよぎります。
オヤツを食べるのは「時間がもったいないような」不安がよぎります。また、奥歯の虫歯を悪化させるかもしれないとも思います。
これが、仕事が進まない理由を他の人に相談しにくい理由です。他の人が私の悩みに共感できないように、私もまた他の人の悩みになかなか共感できません。
もちろん非民主主義国側に民主主義に対抗するような共通するイデオロギーや思想のようなものがあるわけではない。独裁的な指導者が自らの権力を維持するために民主主義を否定している国もあれば、冷戦後に一度は西欧流の民主主義システムを取り入れたものの、国内の政治や経済が混乱したため再び権威主義国家に戻ったハンガリーやポーランドのような国もある。その多くが途上国であり、中国からの援助を期待して中国に歩調を合わせている。
欧州連合(EU)は9月にまとめた報告書で「司法の独立に深刻な懸念が生じている」と述べ、ハンガリーに厳しい視線を向けました。オルバン政権誕生以降、憲法改正などで政権寄りの裁判官を増やすといった強権を発動、2018年に非民主主義国家に逆戻りしたからです。
民主主義を揺らすのは低成長の経済と富の集中です。ハンガリーがEUに加盟したのは04年ですが、今も賃金水準はEU平均の3分の1。「民主化すれば豊かになれる」という夢はかなっていません。そうした行き場のない不安を取り込み、強権体制に転じる国・地域が増えています。20年に民主国家に暮らす人は世界の46%と、世界の多数派は非民主国家になりました。民主化でより自由になったはずの市民が無力を味わう構図は「自由民主主義のパラドックス」と呼ばれています。
スウェーデンの独立研究機関「V-Dem研究所」のアンナ・ラーマン(Anna Lührmann)上級研究員らのグループは2018年3月19日発表の研究で、政治体制を大きく▽閉鎖型独裁▽選挙による独裁▽選挙による民主主義▽自由民主主義――の四つの類型に分けた。
閉鎖型独裁は、国民が複数政党による選挙を通じて政府の最高責任者や立法府を選ぶ権利を持っていない。中国や北朝鮮、ミャンマーなどがここに分類されている。
選挙による独裁では、国民は上記の権利を持つものの、自由・公正・有意義な選挙とするための結社・表現の自由など、いくつかを欠いている。ロシアやトルコ、インドなどがここに分類されている。
選挙による民主主義は、自由・公正で複数政党による選挙に参加する権利が保障される。ブラジルやインドネシア、モンゴルなどが含まれる。
自由民主主義では「選挙による民主主義」の権利に加え、個人やマイノリティーの権利が保障され、市民は法の下に平等であり、行政府の動きは立法と裁判所によって制約を受けるという状況にある。日本や韓国、米欧などがこれに含まれる。
(自由)
民主主義34カ国において、市民の52%が「自国における民主主義の機能の仕方に不満がある」と回答し、「満足」は44%にとどまっている。
ここで問題視すべきなのは「不満がある」という回答の割合が高い国に、「民主主義の先進国」が数多くある点だ。英国(69%)、米国(59%)、フランス(58%)、日本(53%)といった国で、過半数の回答者が自国の政治に不満を抱いていた。
その主な原因は、自分たちが選んだ政治家に対する懐疑心だ。代表として選ばれた大統領や国会議員らが、民意をうまくすくい上げない、既得権益層の利益を優先する、有権者の多様な利害と価値観が反映されていない――などのようだ。
しかし残念なことにウェブでこういう新たな試みがあると、たいてい最初は情報商材ビジネスの人とかネットワークビジネスの人とかが大挙して流入してきて、一気に胡散臭くなり、一般人は寄りつかず、投機的な行為が繰り返され、揚げ句に食い潰され飽きられて終わる……という顛末になることが多いのです。草創期のトークンエコノミーも似たようなものでした。
新規市場にはつねに「山師」たちが群がってくる
とはいえ、あらゆる新規市場にこのような現象はつきものです。1990年代のインターネットがそうでしたし、もっと古く遡れば、19世紀の終わりの自動車産業だってそんなものです。新しいテクノロジーが出てくると、最初にやってくるのは技術者や研究者であり、そのあとにわあっと「山師」たちが群がってくるのです。
しかしそれは否定されるものでもありません。
── いきなり直球な質問ですみませんが、そもそも “哲学”とは何なのでしょうか?
千葉 哲学とは、物事を少し深く、抽象的に考えてみるということです。
── でも何のベースもない状態から見方を変えるとなると、具体的にどんなところから始めるべきなのでしょうか?
千葉 そこは、やっぱり勉強なわけです。例えば歴史の本を読んで、日本の戦後の政治がどういうふうに変化してきたのかを知ったら、今の状況だってもう少し引いて見られるわけです。例えば科学技術に関しては、メタバースのような新しい技術によりネットの新しい方向性が話題になっていて、そこにお金が集まっている。でもその流行に単に踊らされるのではなく、そういうネットカルチャーがこれまでどんな風に発達してきたのかについての本を読めば、もっと冷静に投資判断ができるでしょう。
── 必ずしも哲学書というわけではなく、まず世の中に対する興味を深めようと。
千葉 そうです。じゃあ哲学とは何かと言えば、社会の色々な事柄や、人間の行動は色々な対立軸でできているということ自体、物事の論理を説明するのが哲学なのです。僕の『現代思想入門』という本は、20世紀後半のフランスの哲学を紹介していて、そこでは前述したような二つのものの対立を「二項対立」と言っています。
── 二項対立というのはいつからあるのでしょうか?
千葉 それ、すごくおもしろいというか、変な問いなのですよ。そもそも人間の思考システムというのは、二項対立で考えるようにできているのです。世の中がどうこうではなく、人間というコンピュータがそのようにできている。でもそういう疑問が浮かぶということは、つまり私たちは二項対立でものを考えることを、普段まったく意識していないという証拠ですよね。
保留にしましょうということ。前述したとおり、実は二項対立というのは純粋にはできていなくて、常に曖昧な領域がある。そしてそのグレーゾーンが、実は生活において一番リアルな部分だということなのです。
⇒曖昧というか、複雑というか。均質なグレーではなく、各人で異なるポートフォリオのモザイク。
僕が2017年にハーバード大学に研究員として行った時は、みんなキャンパスのまわりでタバコを吸っていましたから。一部の人が、アメリカのエリートはタバコを吸わないみたいなことを言っているけれど、全然そんなことない。要は物事を具体的に見なきゃいけないってこと。アメリカはこうだから日本もこうなるべきだとか、そんな大雑把な話ではないのです。
現実の難しさを、以前より『高い解像度』で捉えられるようになる」と述べていましたが、そういう風に具体的に見ることが、“高解像度”で捉えることにつながるということですね?
千葉 まさに。でもそうすると話がわかりにくくなるから、人は嫌がるのですよ。
── みなが「よし」とする側にいたほうが楽ですものね。
千葉 やっぱり怖いし、その方が無難に、定常的に利益を得られるから。でも例えばビジネスの原則というのは逆張りであって、
僕もちょっとしたことで、すごく素朴な批判を受けたりするし。
── でもそこはあえて厭わない気持ちを持とうと?
千葉 哲学の根本はそこですから。
面白いものが読みたかったら、過去の偉人の名作が膨大にあるからそれを読めばいいと思っている。となると僕が描く意味はないと不安になることがないわけでもないんですが」と前置きしながら、「そんな不安を凌駕するくらい、僕は自分のマンガに自信がある。それは僕のマンガは誰でもない僕にとって必要だから。僕のマンガが僕に勇気を与えたり挑戦させたりする。自分のマンガは自分しか描いてくれない」「(マンガを描く)初期衝動は自分に届く言葉や刺さる場面を探してみたい、描いてみたいということから始めたので、こういう機会をいただいたことでもう一度初心に戻って、その根底からは退却せずに、ここから積み上げていって、将来的に副次的に誰かの何かにつながればいいなと思っております」と語り、受賞の感謝を伝えた。 「小学校の頃に『小さな親切作文コンクール』みたいなものを書かなければいけなくて、でも家に帰って早くゲームがしたいから嘘の作文を書いたんです。そうしたらそれがすごくいい賞を獲ってしまって、市のえらいの人の前で読まなければいけないことになってしまって。罪悪感とその後も継続して嘘をつき続けなきゃいけない苦痛で頭が真っ白になった」と続け、場内に笑いが溢れる中、その経験が自身の“スピーチ嫌い”の原点であることを明かした。「今回もよく考えれば架空の話を描いてマンガの賞をいただいたわけなので、(小学生の頃と)ちょっと似ているなと思ったんですが、そのときと違うのは、このスピーチで感謝を伝えたい人がいっぱいいること」と続け、読者やこれまで関わった人々、担当編集などにお礼を述べた。
「報せをいただいたときに思ったのは『あ、私マンガ家だった』っていうことで。私は『マンガ家になろう』と決意した覚えがありません。興味があることやできることを仕事にして暮らしてきたものですから、今回賞をいただいたことではっきり『お前はマンガ家だ』と言っていただけたことがとてもうれしいです」と喜びを口にした。
フーコー(※)という哲学者はそういう統制の歴史を研究し、批判した人なのですが、彼はある意味、はみ出す不良の権利を擁護した人だとも言えます。フーコーは、誰も見ていなくても、自主的にちゃんとしていなきゃいけない、というメンタリティが成立したのが近代であると説いています。
色々な意味で自粛モードになっているわけです。だから今、大学の授業でフーコーの話をすると、学生の反応はコロナ以前よりもいいというか、まさに今のことだ! という反応をするんです。その反面、一部には「規律訓練をうまく使えば、世の中がもっと安全になる」なんて言い出す人もいたりして。
── それはちょっと怖い考え方ですね……。
千葉 少しですがそういう人もいますね。もっと監視カメラを作ったほうがいいとか。
── 私は以前ロンドンに住んでいたことがあるのですが、あちらにはCCTVと呼ばれる防犯目的の監視カメラがいたるところに設置されていて、街を歩いていても、買い物をしていても、常に見られているのです。それもすごい社会だなと。
千葉 イギリスは日本より早かったですよね。日本で監視カメラの必要性が議論され始めたのは2000年代前半だと思います。あの頃はみんな文句を言っていたのだけれど、最近は反対する人もいなくなってきた。
「教えるのが好き」というとちょっと支配的な印象があるかもしれませんが、そうではなくて、僕の教育というのは、他人が突き当たってしまった「思考の壁」、あるいはその人のあり方を窮屈にしている「ブロック」みたいなものを、何とかうまく取り除いてあげられないかというものなんですね。いわば、肩こりをほぐす整体師とかトレーナーのような意識がある。
千葉 僕が大学でやっている授業のモデルも、やはり塾です。エンターテイニングなしゃべり方というか、ある種の市場原理にさらされている人たちのトークがベースにあると思いますね。学校の授業を聞いてもわからないけれど、塾の先生に教わったら「なんだ、そんな単純な話だったのか」と理解できた経験って、よく聞くじゃないですか。塾講師は、たとえ話や適度な省略がうまいから、内容がわかりやすい。
フロイトの精神分析だって、複雑な大理論としてではなく、生活のディテールを浮かび上がらせてくれる照明装置みたいなものとして学ぶべきなのです。
若いころの自分は、年齢を重ねたことによる「経験知」から生まれる、年長者と年少者の落差のようなものが嫌いでした。でも次第にその落差を、年長者という立場からも、年少者という立場からも、ある程度意識的に使うことができるようになってきた。年齢を重ねて身につく知恵というものがわかってきたと言えばいいでしょうか。本書での言葉を使えば、イエスorノーで割り切れない、必ずしも管理できないものをそのままにしておく「グレーゾーンの発想」みたいなものは、歳を取ると、しみじみとわかるようになるものです。
ロジックになりにくい、ロジックに抗うものをギリギリまでロジカルに考えようとする――それがポスト構造主義的な発想ではないでしょうか。
言葉になりにくいものをハッキリさせようとしすぎてしまうと「若い明晰さ」に止まるし、かといってモヤモヤしたところばかりだと「年寄りの説教」みたいになってしまう。そのどちらでもない、若さと老いを脱構築するような語りというか、「年齢不詳の語り」を目指したと言えるかもしれません。
千葉 中島先生はちょっと「謎かけ」というか、禅問答みたいなことを言う人でした。学生が「こういうことですか?」と尋ねると、「そのもう一歩先があるんじゃないですか?」と何かを示唆するんです。
ただ決して「教師としての私は知っているけど、君にはまだわからない」という意味ではない。「問題はさらに深い。だが答えは私もわからない。一緒に考えたいけれど、どうやったら一緒に考えられるかもわからない」みたいな感じなのです。
それを持ち帰って考えて、また中島先生と話すと、何かひらめく瞬間が来たりする。そういうやり取りによって、なんとも味わい深い問いの時空を共有していました。
筋トレには両義性があると言えるでしょうね。規律訓練的にもなると同時に、「自己への配慮」としても可能である。その両義性が問題で、どちらか一方だけではない。
僕は自分における規範性のあり方をよく「姑的」と呼んでいます。ありがちな、口うるさいことを言う姑というイメージですね(姑とはそういうものだと言いたいのではなく、「いわゆる」嫁姑問題というものを念頭に置いているということです)。それは細かいことで自分自身をいじめてしまうような面です。そういう姑的な面と、細かいことをいちいち指摘されて嫌になる「嫁的」な部分とがある。僕において権威をめぐる問題というのは、父権の問題ではなく、嫁姑問題なのかもしれない、と思うときがあります。
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知識と知識とを、いろいろに組みかえてみる。あるいは、ならべかえてみる。
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この著述からまっさきにイメージするのは一面に広げられたカードを無作為に選び出し、その二つから何かアイデアを考えることだ。
たとえば、一枚が「回転寿司」で、もう一枚が「書店」ならば、「回転書店」を思いつくこと──こうした知的操作である。一般的に言えば、発想法的用途であろう。
つまり、梅棹のカード法は「発想法」ではないのである。少なくとも、ジェームズ・W・ヤングが提示したような異なる要素を組み合わせて新しい事柄を創出する、という発想法とはまったく違っている。
では、梅棹は何の話をしていたのか。
思考法だ。
彼は自分の考えをいかに進めていくのか、いかに育てていくのかを説いていたのであった。
⇒発想法、の株がダダ下がりしている瞬間に立ち会ったようw
もちろん、ゼロにはならない。
ならないが、幻想によって吊り上がっていた値段が大幅に「調整局面」されている。
同じように、デジタルに保存した日記が、20年後読み返したときに、そのときの自分の心理状態や生活スタイルを分析する材料になってくれる、ということが起こる。これも同様に、データはなるべくそのままの形で残っているのが望ましい。
たとえば、化石燃料は明らかに化石の原形をとどめていない。地層の重み(圧力)によって変形し、液体になっている。だからこそ、別の用途に用いることができる。
では、知識や情報において、その「力」に相当するのは何か。
もちろん、「考える」ことである。
しかし、今や混乱は整理され、必要なことは明らかになっている。後は、その道をまっすぐ進んでいくだけである。
自己という性質を構成している重要な要素として、セスは次の5つを挙げる。(1) 身体の所有、(2) 一人称的視点、(3) 意志作用、(4) 物語的自己、(5) 社会的自己である。
「私たちが経験することは、感覚信号の原因に対する脳の予測、つまり『最良の推測』から構築される」。わたしたちの知覚は、「トップダウンの、内から外へと向かう、神経が作り出したファンタジー」であり、その意味で「幻覚」であるとさえ言える。ただ同時に、外からやってくる感覚信号を受け取ることで、脳の予測はその誤りがたえず修正される。
本書にはそれ以外にも目を惹くトピックが満載である。デイヴィッド・チャーマーズの言う「イージープロブレム」でも「ハードプロブレム」でもない、「リアルプロブレム」という問題設定(第1章)。ジュリオ・トノーニが打ち出した「意識の統合情報理論」についての検討(第3章)。「最良の推測」という見方を補強するための、ベイズ推定に関する説明(第5章)。そして、新たな意味を有した「動物機械」というアイデア(第9章、第12章)や、人工物が意識を持ちうるかについての議論(第13章)。これほどのトピックがよくひとつの本のなかでうまくまとめられたものだと、その手際のよさに心底驚かされてしまう。
本書は、何かまったく新しい実験結果などを紹介するものではない。そうではなく、問題をきちんと整理し、そのうえで新たな見方を提供している
「あのメールにはこれとこれについて書こう」というシノプシスを書いておけばタスクの実行ははるかに容易くなる。というか、そうしたメモ書きは一種の「準備運動」のようなものなので(なぜならそこでは一種の脳内シュミレーションが走るから)、そのまま体が温まって本番運動に移行してしまうことも珍しくない。
⇒シミュレーション。良くも悪くも、走っちゃう。
⇒大きくて重くて辛そうだったり失敗しそうだったり他人から責められそうなタスクのときは、シミュレーションを止めたい。
書き出したものがアイデアであると判断されるならば、しかるべき手順でそれを処置する。
こういうもろもろを経て、その日に書いたものはその日(かせいぜい次の日まで)に処理してしまう。
こういうプロセスが回っているならば、それはデイリータスクリストが「inbox」と同等の働きをしていることになる。違いは、それがfixされて常に同じ装置であるのか、それとも日ごとに移り変わっていくのか、という点だけだ。
inboxは、必ずしもfixされた装置でなくても構わない。日ごとに移り変わっても構わない。大切なのは、「とりあえずそこに入れておき、入れたものを後から処理する」ための装置である。
そういう理解をすれば、GTDとデイリー方式の「一つ上の視点」に立つことができる。
⇒1ポケットじゃないだけ。
⇒捨てずに捨てる
言える場があればだいぶ変わるのではないでしょうか。
無差別殺傷をしたいと思っている人たちも、誰にも理解されないから行動に起こしたいのであって、似たような人がたくさんいるとわかったら、やる価値がなくなりますよね。
――東海道新幹線無差別殺傷犯の小島一朗も、インベさんとの手紙や面会でのやり取りが続く中で、段々饒舌になっていきましたよね。
インベ そうなんです。なぜ自分がこういう行動を起こしたか、話すことで「なんだかわからない怒り」から「なんだかわかる怒り」に変わって、自己理解につながっていく。セラピーのような効果があるんじゃないかって思ったりもするくらい。
そのような構造では、男性は差別の問題の当事者という意識を持ちにくいんです。じつは差別があるゆえに、男性自身も抑圧されているんですが。
例えば、「もっとお金を稼がなきゃ、強くならなきゃ」と思うことは悪いことではないですが、それが自分のやりたいことではなく、そうしないと男性は生きていけないという強迫観念に基づくのであれば、そうした感情を生み出す社会は不健康ですよね。さらに、勝てないことに劣等感を抱える人がどんどん増えてきます。このように考えると、追い詰められた末の「一発逆転」のひとつが、無差別殺傷の可能性もありますよね。
無差別殺傷はある種の「勝ち」なんだと思います。誰もができないことをする。無差別殺傷することが、トップに立つことと同義になっている面があるのではないでしょうか。
自分が被害者になることを想定する人が、圧倒的に多いからではないでしょうか。絶対に自分は加害者にならないから、危険人物を排除すれば、自分たちは安全、と思っているのでは? また、人を差別しているうちは、自分は差別される側にはならないですよね。要するに、罰する側であるということが、安心につながる。
阿部恭子さんは、無差別殺傷の一つの要因に「家族への復讐」をあげていました。事件を起こし、判決がくだる時、もっとも大きなショックを受けるのはやはり血のつながった家族、特に親なんです。以前取材した小島一朗からも、親に対する「こっちを見て」という思いがひしひしと伝わってきました。
叩かれることは、ほぼない。だから、社会の中で言いやすい言葉になっていますよね。でも、それが世の中に漂う常識を作り、排除される人が生まれる。だからこそ私は、言いやすい言葉に敏感でありたいと思っています。
快感を得るなら、もちろん叱る行為には依存性がある。叱って快を得られたとして、全員が依存症になるわけではないが、そこから「よく叱る」ようになる人、つまり依存するようになる人は「今人生でなんらかの苦痛を感じている人」の可能性が高いと著者は言う。
叱ると、快がもたらされるのはもちろんのこと、何かしら別の理由で苦痛がある人は、また似た別の回路が動いて、二重に報酬をもらえるのだという。たとえそれが「自分が叱っている間」といういっときだけであっても、今「受け入れ難い現実」がある人は叱る中毒になりやすいそうだ。
「あの人あんなにいつも何かを叱ってて疲れないのかな」と疑問に思うような人は身の回りにいないだろうか。
⇒感情を爆発させるんじゃない場合でも快があると。
⇒一般には、「“怒る”じゃなく“叱る”をしましょう」と、肯定的ニュアンスのある言葉だと思う。UモードとIモードみたいに。