2022/05/19-2022/05/26
京大にしか行けなかった問題
個別の最底辺を一つ一つ救うしかない。とてもつまらないが。
ドラえもんの主人公
これは純粋な疑問なんだけど、男性ユーザーさんには『トレ(俺代理)×ウマの恋愛よわよわ赤面ネタ』とか『トレ(俺代理)と結婚して人妻になりエプロンお玉スタイルの担当ウマ娘ネタ』とかがすごい好まれる風潮にあるのに、なんでみんな夢男子を自称しないんだろう
そういう単語無いの? 普通に不思議
⇒面白い疑問だ。いくつか思いつくことはあった。どんずばかは分からないけど
三層構造
プレゼン「俺も肉食いたい
ホモソーシャルを信じられる
もともとを破壊するものには冷淡
地下茎でつながっている
sin「お前もsinにならないか?」
cos「ならない」
tan治郎
Obsidianは(中略)操作もできるがそれは、(中略)箇条書きのスタイルを適用した場合に限られる。
Scrapboxもそれに近いが、エディタ部分が弱めのアウトライン機能を備えているので(項目の開閉はできないがすべての行とブロックがショートカット移動できる)
大学の機能の一つは、労働者数の統制。
それと同じ意味で、教育制度は労働者数をコントロールする、言わば、ダムでもある。
⇒こういう比喩は、ある視点のもとで、「構造」のみを分かりやすく示す効力があると思うんだけど、それを自分も所属する集団に対して用いられると、「侮蔑された」と感じて怒り出す人がいるわけなんだけど、そういうメンタリティーはよくない。
「発話者の上から目線を感じる」てのもダメ。
こういった発言に対する怒りを表明することが悪、というよりも、そういった表現に怒りを感じる、ということ自体がもうダメで、「精神修養でもしてろ、社会に出てくる前に」という感想をつい持ってしまう。
「相手は我々に対する差別感情を持っている」「偏見を固定化させる」
→マイクロアグレッションでマイノリティーは精神的な不調を起こしやすいという明白な事実があります。「あなたが好き勝手にしゃべれることと、マイノリティーが被害を受けないことのどちらが優先されるべきでしょうか?」という話です〟
⇒うーん。
「好き勝手しゃべれること」のほうが、上かもしれない。
これは、私が男性という有利者だからという感覚では、たぶんない。どちらかというと、その男性世界で、優等生、インドア派、オタク趣味、といった三重苦の中で生きてきたからってことの要因だという気がする。バブルの余波もあって、恋愛至上主義的な空気もあったし。
だから、
「仲間意識を持っていたところに、不意打ちでアグレッションを受ける」ということの、前半がそもそも成立していない。
共同体的な意味で、仲間に受け入れられる、そしてそこで心をゆるせる、ということへの期待感をそもそも持っていないんではないかと思う。
だから、
「きれいごとはどうせ無理なんだから、せめて “自由” であることの邪魔だけはしないでくれ。世界は」
という感覚から意見が生まれている。「拗らせている」ということなのかもしれないけど、意識としては、「被差別者」側の感覚に、たぶん近い。
自分自身に対してだって、「キモい」と思うわけだしな? オタク趣味って。
だから、「自由さえ与えておいてくれたら、部屋の隅で大人しくしとくから」という感覚にもなる。
嫌われてるとか、見下されてるとか、恐れられてるとか、面白がられてるじゃなくて、排斥されている感覚がある。
この、「受け入れてくれなくていいから、自由だけはせめてください」という発想、ほかのマイノリティーの皆さんの中にも持っている人は案外いるのではないかと思うのだが。
俺が苦労したんだから、お前もその程度は乗り越えろ、というんでも、ない。
交際中の女子生徒とわいせつ行為 スマホで撮影疑い 男子高校生を逮捕
女子も未成年だが、男子も未成年で、交際中でもあったなら、わいせつで何が悪いの?
あ、でも撮影はアカンよな……
ただ、裸や行為によって、女性だけがダメージを受ける文化というのが解消されることを、目指すべきなんでは?
それはむしろ、貞淑からの解放、的な運動を進めることで達成できてしまうのでは?
それはむしろ、非モテ男性に厳しい世の中になるのかもしれないが……
みたいなことを、するする考える。
僕たちがヤードポンド法を憎んでいるのと同じように、アメリカ人もメートル法を忌み嫌ってると知った時、「俺たちが戦っていた相手も人間だったんだ」って気持ちになったよ。
急に「マスクはもうやめましょう」みたいな風潮がメディアから広がっているが、一体どういうことだろうか。
「経済に悪影響が大きすぎるので、自粛はやめましょう」ならまだ理屈としてわからないでもないが、マスクをやめさせることに何かメリットがあるのか?
⇒ごちゃごちゃ気持ち悪い陰謀論がツリーに連なってるな……
「もともとマスクは法的に強制していたものではないが、高い使用率で推移できているのは、政府や識者からのメッセージがこれまであったことも要因ではあるだろうから、緩めていく際にもメッセージを出しておくことにした。
国民の内なる声が徐々にそれを求めてくるだろうことも想定できたので」くらいのことだろうよ。
ASDに限らず、発達障害は、いや精神疾患全般もそうかもしれないが、正常や定型発達から違っているもの、といった見方をされることが多い。
違いを認識するのも大切ではある。なぜなら違いを認識することで診断が可能になり、ハンディキャップと証明し、支援や配慮が必要だと公に言えるようになるからだ。
また、違いをとおして、マジョリティのなかで埋もれている当人の生きづらさを発見できる……そういう部分もあるだろう。
しかし違いが全てかといったら、そうでもない。
ずっと多くの人が、認められたいとか、友達や知己を持ちたいとか、プライドや自尊心を形作れる場所やチャンスを持ちたいと願っている──その気持ちのあらわれ方が若干変わっているとしてもだ。
そしてASDの人だって、冷遇されたりいじめられたりしていると気づけば傷つくし、虐待されれば心には爪痕が残る。
ASDの人のコミュニケーションの方法や特性が違っているのはそうだとしても、そのコミュニケーションの難しさの向こう側にいるのは、同じく心を持った人間なのだ。
ASDを宇宙人的と比喩する、少なくとも比喩するだけでは、その当たり前のことが過小評価されてしまうよう、私には思えてならない。
⇒新海誠関係なく、他人の恋愛話っておもしれー、だし、別れ(不幸話)って、何かの一つの限界であるだけに、個性も極まっていて、めっちゃ読み込んでしまう……
根底は自己肯定感が低く、自分は理解されない/他者に受け入れられない人間なのでは、との不安感が強かったように見える(自分が誰かの役に立つうちは、存在していることを許されるだろう、というような)。 恋人としては、言葉を尽くして自らの思いを語り、常にエスコートしてくれる、一途な人。 自分の言葉で心境を話してくれるところに、深い信頼を置いていた。
一途な自分に憧れている様子はありましたが、一方で「浮気したい」「彼女を嫉妬させたい」という願望が言動の端々から滲み出ていました。
また、それらの方法を知らない一般人のことは、私を含めて「情弱」とバカにしていました。私の前でカッコつけたかったのか、店員さんに対して横柄でタメ口なところもありました。
先輩って〇〇ですよねw」みたいなことをよく言っていたのですが、その内容が現実と私とはズレていることが多々ありました。現実の人間に対する解像度が低いような印象でした。 話していて印象的だったのが、一人称を全く使わなかったことです。彼は「僕、俺、私」などの一人称を会話の中で一度も使ったことがありませんでした。自分の話をする時は主語が全くない状態から始まるので、時々何の話をしているのかがよくわからなくなりました。
3年後、ずっと片思いしていた友達に恋人ができました。私は友達のことを誰よりも知っている自負がありましたが、その友達が恋人の前で見せる笑顔は私と一緒の時とは全く違う顔で、雷に撃たれたようなショックがありました。(NTRの感覚にかなり近いです) それを見た私は「友達に恋しても幸せになれないんだ」「友達と同じ『恋人持ち』という土俵に上がりたい」と思うようになり、後輩の彼のことを思い出しました。 私は本当に不誠実で最低な人間だったと思います。
順調に付き合っている間(約1年半)は日常的に相手からの率直な愛情表現があったが、最後の方は分かりやすく冷めていた。逆に私は時間をかけて好きになっていくタイプなので、向こうが冷めているのはうっすら感じつつも別れたくないなーと思っていた。相手が冷めている件については2人で何度か話し合いもして、「嫌いになったわけではないので別れようとは思わない」と言われていた。私はまた愛情の波が来るよう頑張ろうと思っていたが、相手の態度があまりにも冷たすぎて心が折れ、別れることにした。 とあっさり書いているが、実際のところは、 私「別れたいんなら別れたいって言ってほしい」 →相手「じゃあ別れよう」 →私「じゃあって何?!主体性ないわけ?!私は別れたくないってずっと自分の意思伝えてるのに」 みたいなクソめんどくさい問答を何回もやってます。今思えばさっさと別れたらいいのにって感じです。最後はもういい分かった、どう頑張っても愛情を取り戻すことはできなさそうだしこれ以上頑張れない、疲れた……って感じで終わりになりました。
あと天気の子は一緒に映画館で観て、いたく感動したようでした。「俺これちょっと語ってもいい?」と言って、世界vs恋人の選択に迫られて恋人を取っても世界は何だかんだで2人のことを意に介さず回っていくんだ、セカイ系の真髄だ、みたいなことを話していた気がしますが正直あまり覚えていないです(すみません)
私としては、お互いに愛し合っているのなら、添い遂げられるように行動すべきだと、具体的な計画と共に伝えたが、彼に現実を変える(家から逃げる)つもりはないらしかった。 思い出を大事にするのは結構だが、未来の大切な思い出になりうる今を勝ち取ろうとはしないのだなぁと思い、それからは、彼と共にある人生を望まなくなった。 未だに彼を愛おしくは思うが、恋人への親愛ではなく、知人への親しみとして。
私たちは遠距離恋愛だったため、連絡は2〜3日に一度、千文字弱の交換日記形式でとっていた。 お互いに詩歌が好きなので、題材になりそうな美しい風景を見たことや、自作を綴ったり、著名作品で好きなものを紹介し合ったり、とても文化的な交流があった。この交流は、おそらく今後、他の誰かとは得られないものだと思う。
⇒きっかけになったというツイートのように、これらのエピソードを一つの人格のように感じられるかといえば……
まあ、かなり重なることはできる、公約数部分の大きな公倍数、みたいにはなるだろう。
でも、まとまるかといえば、まとまらないよね。
反対に「甘えたい」という欲求が満たされていないと、難しい心理状態に追い込まれます。大人になって、いや子どもであっても、そうそう他人に向かって「甘えさせてください」などと言えたものではありません。
というより、まさに「甘え」を切実に欲しているときほど、そういった欲求を発信できなくなるのです。
甘えとは相手の行為を宛にするという意味であり、甘えられないとは相手が好意的とはとうてい思われないという状況だから、甘えさせて欲しいときほど、「甘えさせて欲しい」などと言っては屈辱的でいたたまれない事態に追い込まれるとしか思えなくなるのです。