2022/03/21-2022/03/31
#採掘場
『当事者は嘘をつく』
確かHONZで、激賞されていて気になって読んで、そしてちゃんと面白かった。
しかし、
この本はなんなのだろう。
いや、「こういう作者が、こういう内容について語った本で、それゆえにこういう点で貴重な本だ、こういう人には刺さるだろう」ということについては、たぶん簡単に書ける。
しかし、それは私がこの本をどう楽しんだのか、私にとってなぜ楽しめたのか、といったことの前説明に、ほとんどなってくれない気がする。
重い気持ちを抱えて生きていて、
そこから発する思いもあって、
それを誰かに訴えたかったり、
それをうまく生業にしたり、書いたりすることができなかったり
そういう部分がある人に、読むと何か響くところのある人生記なのではないかと思う。
私は女性ですらないので、本当にはこの作者の気持ちをわかるわけもないけど、ある種の微分され整理された構造において、やっぱり響く部分がある。
すごい人の人生回顧、というのは、おもにビジネス書なんかの世界で、すごく馬鹿にされるようになった。
けど、ときどき不思議な響きかたをする本がある。
『習得への情熱』とか。
『銀と金』11巻の再読メモ
『外交』(有斐閣)
国家理性
フランス外務省、リシュリュー枢機卿
外交
タレーランとジョゼフ・フーシェ
リシュリューWikipediaページ
国内ではラ・ロシェルを攻略したように反国王の立場をとるプロテスタントを抑圧したにもかかわらず、三十年戦争に際してプロテスタント側(反ハプスブルク家)で参戦した。
セリフの、いと長いハモり。
だからなんじゃ、という感じだけど。
会話をしていて、同じ言葉を同時に誰かが発するとびっくりするやね、という話しで、それが長いフレーズだと、途中でなんかむずかゆくなってくるんだな、ということも含めた体験があった。
言葉を発したのは、私と息子。
発した台詞は、
「平安時代にソメイヨシノはなかったよ」
いやな親子だ。
だんだんむずがゆくなってしまったので、息子側の文末が、「なかったから」だったか「ないんだよ」だったかは、したかもしれないけど、覚えてない。しかしまあ、「 〜ソメイヨシノはな」までは同じ言葉を言っていた。
このセリフの前に、誰が何と口にしてからのこの流れになったのかについては、家人の名誉のために伏せておこう。
ただまあ、「平安時代の人も、私たちと同じように自然を見て、同じような感興にふけったのではないか、という思いを馳せる気持ちは分からなくもない。
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https://cyblog.jp/46200
よほど変な人でなければ「さあ凡打を打つぞ!」「さあ三振するぞ!」と思って打席に立ったりしないのです。
だから誰だって、結果が出る前までは「自分の使い方こそ正しいと信じて道具を使う」ものなのです。
なにが言いたいかというと、私とjさんのタスクシュートの使いかたは、大いに違っているということです。
しかもどちらも、「自分の使い方は絶対にまちがっていない!」と信じてもいるのです。
それでいいのです。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/031500122/?ST=m_news
それにしても、ピエロの不気味さの正体は何なのだろうか。
ただゾッとするとか、気持ちが悪いというのではなく、何かをされそうな不気味な怖さがピエロにはある。「銃口を顔に向けて金を要求する強盗は確かに怖いし、ゾッとする。だが、そのような状況をあまり『不気味』とは言わないのではないか」と、2016年に「不気味さ」について初めての大規模研究を発表した社会心理学者のフランク・マカンドリューは言う。
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00800/
土井教授はまず親世代との価値観ギャップの消失を挙げる。「例えば10代の子どもの親の多くは30代から40代で、思春期の頃はすでに高原期でした。子どもと親の価値観があまり違わないので、衝突しない。高度経済成長期のように、努力してより高みを目指せという親の価値観を押し付けられることがないのです」。
「経済成長期には、それぞれ違う山を登っているかもしれなくても、明確な目標を掲げ頂上に向かって進んでいます。社会が高原化すると、どこに向かって歩いて行ったらいいか分からない。隣の人がどこを見ているのか、お互いの視線が気になり始め、不安が増します。
https://note.com/sasakitoshinao/n/n9b916bf1f549
この記事でベストセラー『サピエンス全史』のハラリは、ナショナリズムとリベラリズムはこれまでは相反するものだと考えられていたと述べています。愛国的な右派がナショナリズムで、個人の自由や社会包摂を大事にする左派がリベラリズムだったのです。
ところが、ロシアの侵略戦争に対するウクライナの人々の抵抗によって、ナショナリズムとリベラリズムが合体してしまった。ハラリは以下のように指摘します。
「ウクライナ人は、自由な社会のために戦うのと同じぐらい、国家の自由のために猛獣のごとく戦っています。さらに彼らは、ナショナリズムとは、外国人を憎むことでもマイノリティを憎むことでもないのだと、私たちに思い出させています」
「それは自国民を愛し、人が自分の未来を自由に選択するのを認めることなのです。ナショナリズムとリベラリズムのあいだの深い繋がりをヨーロッパが思い出せるなら、地域内の文化戦争を終結させることができ、プーチンを怖れる理由は何もなくなるでしょう」
ウクライナの人々が自国のために戦うことが、すなわち自分たちの自由を守ることにつながる。そもそもヨーロッパでは近代のはじめ、王政という抑圧への抵抗とそこからの自由こそがリベラリズムの出発点になっていたわけで、21世紀に国際社会が逆行して弱肉強食の環境に陥りつつあるからこそ、いまふたたびナショナリズムとリベラリズムが接近してきたということなのかもしれません。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000249097.html?display=full
旧式の兵器弾薬はまだ1カ月は持つだろうが問題は別の点にある。戦車のエンジンの交換、保守、大砲の交換が必要になる。たとえ巡航ミサイルがもっと必要になっても短期の補填は不可能だ。長い時間がかかる。戦術の立案段階の失敗は戦術では補えない。ロシア軍の不利な形勢を戦術の変更で立て直すことはできない。
現在、ロシア軍参謀本部では、弾薬生産などの現場の尻を叩いているが、それは侵攻前にやるべきことで、もはや手遅れだ。三交代制にしたところで、すぐに成果は出ない。1〜2週間はかかる。その間にウクライナにはロシア兵がいなくなってしまうだろう。
https://agora-web.jp/archives/2055685.html
おそらく危機になればなるほど、日本社会に根差した平時の思考では対応できなくなる。それを率直にふまえた上で、冷静な情勢分析や、重要な判断の検討をするのが、当然であるはずだ。ところが「もうこういうややこしいことは終わりにしてほしい」というお茶の間のテレビ視聴者の要望に応えようとする文化人などが、小学校あたりで習ったかのような紋切り型の世界観を振り回して、「こうしろ、ああしろ」、という独断に満ち満ちた説教をするので、話はややこしくなる。
https://note.com/takeuchi_kazuto/n/nf09cf11f2849
ミアシャイマーは大まかに電撃戦略と消耗戦略に類型化して戦略を分析しています。電撃戦略は機動力の発揮を重んじており、敵部隊を物理的に破壊することよりも、戦略的包囲で敵部隊を後方から遮断してしまうなど、戦意を喪失させる心理的効果を追求します。反対に消耗戦略は火力の発揮を重んじており、敵部隊の人員、武器、装備を物理的に殺傷、破壊する戦略です。
電撃戦略を採用する国家は、抑止戦略を採用する国家に比べて、はるかに抑止が難しいことを述べている箇所です。
「もし潜在的な攻撃者が、敵よりもはるかに大規模であり、しかも電撃戦を遂行することが可能だと信じているなら、危険があったとしても、抑止はほぼ確実に失敗する。攻撃者の電撃戦略が失敗したとしても、依然として大きな数的優勢を保持している」(Ibid.: 65)
ミアシャイマーの理論によれば、第二次世界大戦(1939~1945)を防ぐことができなかった原因も、通常戦力による抑止が難しい戦略をドイツが採用したためでした。当時、ドイツ軍の戦い方は機動的な兵力運用によって迅速に敵の後方を遮断するというものであり、ミアシャイマーが考える電撃戦略そのものでした。これに対抗するには、抑止する側、つまりイギリスやフランスも電撃戦略を採用する必要がありましたが、フランスは消耗戦略に固執していました。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220326-OYT1T50070/
他にも様々な質問をしており、この約1割の人には「政府への信頼感が低い」「科学への反発が強い」「ユーチューブで情報を得ている」「不安が強い」という傾向が見られた。
信じる要因として特に注目したのは「不安」だ。「つまらないことで悩んでしまう」「神経質なタイプだ」「不安が心から離れない」などの項目にあてはまると答え、日常的に不安が強いことがうかがえたが、コロナへの不安は弱いと回答する特徴があった。
コロナ禍で、今まで漠然と抱えていた将来の不安がさらに大きくなった人は多いだろう。そんな時、ネットで目にした「コロナはただの風邪」といった言説を信じることで、無意識に不安を抑え込もうとしたのではないかと推測している。
人間は不安が大きいと、その原因や状況に明快な説明を与えてくれるものに頼りたくなる習性がある。「黒幕の仕業だ」といった陰謀論に傾倒して攻撃的になるのも、行き場のない感情に折り合いをつける行動だと解釈できる。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20170906/1504698762
(あ、ひょっとして自分が仕切るってことが苦痛なタイプなんじゃないかな)と思った。仕切ることが、相手を押さえつける、相手の自主性を奪うような感覚があって嫌なのかもしれない。そうした感覚は以前の自分が持っていたものと同じなので、わかるような気がした。
でも現実には、結局誰かが仕切って最終的に決定しないと物事は何も進まないし会議はいつまでも終わらない。それだから、相対的にそういう役目にいることがわかるなら、もう自分がコントロール権を取っていかないとみんなが不幸になる。ということを知らずに課長にまでなってしまったのは、かわいそうなことだろうし、周りも本人もストレスフルだろうなと思ったのだった。その意味で、自分はあれぐらいの時期に気付くきっかけがあったのは有難いことだったのかもしれない。
8,9年前に母親と何かで口論になったことがあった。その時母親が「もうこの年になって子供から怒られたりしたくない」と言って、かなりびっくりしたのだった。自分の方は、丁寧に説明すれば理解してくれる相手だと思っていたし、お互いが理解に達すればいいと思ってそれまで言葉を重ねてきたのに、それをいきなりシャットアウトされたことにびっくりしたのだった。
これもちょっと経ってから、別に相手は相互理解に達したいと思っているとは限らない、それより感情的に慰撫されることの方を望んでいたりする、という当たり前のことを自分がわかってなかったことに気付いたのだった。むしろそれまで、母親のことを話してわかってもらえる相手だと自分が信じ込んで疑ってもいなかったことに気付いてびっくりした。
それ以降、母親に対してはほとんどカスタマーサティスファクションみたいな、顧客満足みたいな観点で接するようになって、それで上手くいった。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20160711/1468243274
でもだんだん壁打ちが始まって、ラリーが始まって、サーブ練習が始まって、なんかみんなよりも下手くそだってことに気づいた。個人練習で下手くそなのもそれなりにつらかったけれど、ダブルスの練習試合とかで下手くそなのはもう耐えられなかった。申し訳なさもあった。
それで、(そうか、自分は運動神経ないんだ)と思ってがっかりしてやめた。誰だって「お前なんか無能」と思わされる地点に居続けるのは自尊心が耐えられない。
あのころ、「ああ、ラケットの上でボールリフティング(?)するやつだけ、みんなで部活でやれればいいのに」と思ったんだったってことを、急に思い出した。
もし、もっと体が自由にコントロールできて、しかもどんどん上達してるって実感があれば、ソフトテニスの部活も楽しめたんだろうなって思う。でもそのためには、まず体の動かし方の基礎の基礎から一歩ずつ習得して、その後でラケットの使い方、ボールのコントロールの仕方、と順番に、丁寧にステップを踏んで上っていく必要があった。みんなはもう「体の動かし方の基礎」ができていたから、そこは飛ばしてラケットの使い方からのスタートでOKだったんだけど、僕はそこができてなかったから、文法知らないのに英作文をこなすみたいなことになって破綻したんだ。
今の自分は職場で、自分で自分の仕事をコントロールできているっていう実感があって、それはとても大きなよろこびがある。たぶんそれと同じように、自分で自分の肉体をコントロールできているって実感にはすごいよろこびがあるんだろうと思ってる。きっとそれは、ほとんど生理的なと呼べるくらいな快楽だろうと思う。(もちろん単純作業をこなしているとき特有のよろこびもあって、テトリスとかマインスイーパみたいな、でもそれと対立しない形で自己決定権の実感のよろこびはある。)
⇒コントロールのキャパがすごく低い人は、世界の中の現実的な範囲でその快を受け取らないし、
⇒得の3倍損がこたえる(人によって比率は違う)みたいに、「できない」ことの苦しさも人によっては違う。
あの頃の僕にとって、体の動かし方の基礎的な技術を一つ一つ習得する必要があったみたいに、仕事だって自由にやるには技術の積み重ねが必要になる。他人への振り方・説明の仕方や、広さ方向・深さ方向への把握の仕方、筋論と実態を両方満足させるという認識、等々……。そのとき同時に「あ、自分はちゃんとできるんだな」って実感を持って自信を積み重ねられる環境整備も必要になる。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20220326/1648299600
相談者は、就職してから「若手だから」と色々と我慢させられてきたし、してきたという。しかし、年上にもため口で、言いたいことややりたいことを好きにしている(ように見える)フワちゃんが登場したことで「我慢しなくていい」「好きにやればいい」という風潮が生じた。今まで「我慢しろ」と抑圧してきた側の人達まで「いいじゃん」「最近はそうだよね」と肯定しているのが許せない。
長い列に並んで順番を待っていたら、突然「もう並ばなくていいですよ」と列がなくなってしまった。今まで待っていた時間は何だったのか。そんなフワちゃんを見ると、妬ましさが生じてしまう、といった話だったと記憶している。
それに対してフワ氏は「私自身いきなり出てきたわけではなく長い下積み時代があった」と断りつつ、「そういう気持ちになる誰か」は自分にもいる、と語り、指原氏も「自分にもいる」と同調する。なるべく見ないようにしているという。
両氏はともに、自己をよく客観視・相対化でき、それを言語化する能力もあり、自己を高い水準で確立できているように見える。
「彼女らほどの人でもそう」は、「それなら自分もそうなのは仕方がない」という救いでもあるし、同時に「そこまで行っても苦しみから免れない」という救いのなさでもある。
「そういう人を見ないようにする」が現実的で正しい対処法だとしても、実践できている人は案外多くないのかもしれない。この選択は、両氏の自己を客観視する能力の高さから来ている。
そうした人を見て嫉妬を覚えて、しかし「自分が自分を苦しくしている」と正しく認識できずに、「こいつが悪いから自分は苦しい」と逆恨みしてしまったりする。
あの人が単にすごいだけだ、別世界だ、と思えれば妬ましさは生じない。
しかし「自分だってそうなれたはずだ」「本当はそうなりたかった」と思えてしまうと、嫉妬になって苦痛が生じる。人生は一回きりしかないという前提が、「しかしそうではない現実の自分」の取り戻せなさを強調してくる。
歳を取るにつれて、可能性の束が収束していくのを受け入れて、「そうではなかった自分」を穏やかに肯定できるようになってきても、「そうだったかもしれない自分」をあたかも体現しているような人物を見てしまうと、その肯定が揺さぶられて苦痛を覚える。
そうした嫉妬を感じたこともなく、想像も難しいという人もいるかもしれない。ただそれが必ずしも幸福だと断言できるかは分からない。両氏が「成功」を収めた要因には、「こうした嫉妬を覚えるタイプの人だったから」という側面があるのかもしれない。
「こうありたい」とイメージを具体的に描けたり、他者が何を実現できているかを正確に捉えたりする能力は、「正しく努力する」ために必要になる。その能力は一方で、「そうできたはずなのに、そうしなかった自分」を正確に突きつけてくる。
嫉妬から無縁でいることと、正しく努力する能力を持つこととが、同時に成り立つのは難しいのかもしれない。
また嫉妬から無縁でいられた人が、ふいに嫉妬に駆られれば、何の免疫も持たず、感情の対処の仕方が分からずに振り回されてしまうかもしれない。その意味でも「無縁でいられること」が必ずしも幸福で安全かは分からない。
https://cyblog.jp/46223
よく考えてみると「批判する」ことで批判者が得られる最大の成果とは、ほとんどの場合「スッキリする」ことくらいしか考えつきません。
スッキリした批判者は今後、同じ基準による自罰と自責を引き受けねばならなくなるはずです。
消えてなくなればいいのに!」と考えた人は、同程度のミスをしたときには、自分が消えてなくならなければならないのです。
「いいや! G.G.は消えてなくなる必要があるが、自分の場合には、オリンピックで落球するほどのでかいミスを犯しても、少しも責められるいわれなんかないぞ!」と自分ひとりを説得しきるのすら、意外と難しいものです。
だからこそ、郵便局の窓口でモタモタしている人にイライラしがちな人は、自分が窓口に立つと「後ろの視線」が気になるわけですし、会社の「窓際族なんかクビにすればいい!」と思ってしまう人は、自分が風邪をひいて休むと不安をおぼえるものなのです。
それができれば「スッキリ」するということは、逆にいえば、そうできないときは猛烈な怒りをため込んで悶絶しなければなりません。
コイツに天罰が下ったらいいのに!
といつの間にか「念じている」といったことは生きていればいくらでも遭遇します。
そしてまるでその「念力」が通じたかのように、総理が退陣に追い込まれたり、五輪の会長の首がすげ替えられたりすれば、「念が通じた!」と感じて「スッキリ!」することがあるのです。
逆に、この感情が私の中で津波のように押し寄せてきたにもかかわらず、
なぜか念が通じない!
なぜか正義が通らない!
なぜかワルモノに天罰が下らない!
となったとき、その怒りを私が制御しなければならなくなります。巨大な怒りの津波の「防波堤」に自分がならなければならなくなる。
会社の上司をリンチにかけたいとき、一緒に暮らす配偶者を怒鳴りまくって抑うつ症にしてやりたいとき、実家の親に正義の鉄槌を喰らわせてやりたいとき、実際にはそうするわけには行かないとなると、強烈な自分の怒りのやり場がなくなってしまうのです。