2021/12/01-2021/12/10
#採掘場
思考エネルギーはキャッシュフローのよう
「ちゃんと落ち込みたい」って感覚ってなんなんだろう。
同じこと繰り返して、何が楽しいの、何が楽しくて生きてるの、という言われかたをするけど、
落ち着くとか安心するから、という描写よりも、
やったことがあって知っていることは、脳の中で注意を要求しないから、観察者の姿勢ままでいられてラク、という感じ。
駅の反対側のコンビニ
怒られるのが怖くて生きている
他者の空気に影響されないし、関心を持つこともない。自分の好きだけで生きていたいと思っちゃう。
だけど口を出されるのもいやなのだ。
でも、一人で生きるのもつらくて、一緒にいたいのだ。
仕事場で仕事をしているときに、スマホの写真なんかで「ふっと気を緩められる」のっていい効果を生むんだけど、家で仕事をしているときに気分を変えられる選択肢があることは、多すぎてむしろ害になる。
そういえば、私はデシの本が響かなかったのだけど、響いた人にはこんな感じだったのかな。
BC026『Humankind 希望の歴史』
利他的にした方が遺伝子にはいい
マネージャーいらんよね、という観点から見直し
⇒抑止力というか、盆をひっくり返す力はいる。
インターネットが基盤として悪いのではなく、SNS個々の設計がわるい
インターネットのいいところは領土がないことだったのに
戦いたければ2ちゃんねるにわざわざ行っていた
⇒論文は書かなくてもいいけど、理性的で建設的な会話発言をできる瞬間に備えよう。
どうしたら共感を抑えて、思いやりの力はどうやったら育めるのか
ニュースは見てはならない
人間は悪という見方は強くすりこまれてしまう
⇒難しいのは、共感性は善の源泉だというところ。理性がその役割を上書きしつつあるとはいえ。
甘えと法
「悪いようにはされないだろう」という信頼
井戸端会議の話題のタネ、祭りや神輿としてのニュースの話題
レゴ人形の顔
かっこよくしようとすると口元を片側つりあげるしかないし、
大人を書こうとすると、眼鏡にするか髭を付けるしかない。
漫画なんかでも、歳を取っていることを表現しようとすると、ほうれい線としての線を入れるしかない。
最近物騒になったという詠嘆への反感4
自分だけ助かろうとしている
(寄り添ってない)
昔もあったのに見過ごされてきた、ニュースで見るようになったセンセーショナルな印象に流されている
経験からくる過去バイアス
関心の変化
いっき日記1、「まず、この章ではこのことを理解してみましょう」というような前置きはあるだろうか?
私のような人間にとっては、世間というものは、はじめから常識押し付けてくる敵で、こだわりを否定してくる敵で、
仲間といえば、同じ趣味を共有して、一緒になってそんな「外界」に立ち向かってくれる人たちのことを言う。
世間と、身近な人と、どっちが大切なんですか、と言いたいのだけど、俺を庇って世間と戦ってくれよと願うんだけど、違うんだろうな。
彼らにとっては、自我というのが、まわりや世間から向けられる期待の眼差しや、評判といったもの、そこから得られるモチベーションや倫理的な気分とか、そういったもののポートフォリオまでを含んで「自分」なんだろう。
自分を大切にすること、がそういった評判や期待をコントロールしていくことと、同義でまではないにせよ一体になってはいる。
うわー、めんどくせー、なんだこいつら。
階層の上昇が意外とピラミッドにならない
#うちあわせcast
1行メモは行間が大きくあってほしいけど、
普通のリストは詰まっていてほしい
触りながらじゃないと理解できないもまた真理で、
なんでもに時間をかけて理解を進める、
時間と情熱はない。
隠す努力をするのも嫌だが、控える我慢をするのも嫌なのだ。
たとえば、声の大きさ。
自分の感情の大きさだけで発してしまうし、発していたい感情がある。
場に合わせるということがメインですらないし、思いつきすらしないし、考えたくすらない。
でもそれは、わがままなんでも、冷たいんでも、気遣いが足りないんでもない。
単に、感情で意識がいっぱいなだけなんだ。
自律過剰性候群
わいわいやったり、苦難を乗り越えて雄叫びを上げるような楽しみ方とは別の
雪の女王
そういう不安を、テレビではなく、誰かと分かち合えれば、もっと安心できる。
そういう不安を、政治に怒りとしてぶつけることでなんとかしようとしてはいけない。
夫婦で、男女で、やっていく。
その意味でも結婚して「恋愛しなくてよ」くなったのは大きい。
家の中でだけ使う家庭用ノートパソコン
家の中でだけ使うノートパソコンも、小型のを買えるのなら小型のほうがいい。薄型軽量のやつが。
そりゃ、970gを960gにするような、カリカリのチューンは必要ないだろうけど、2kgを1.59gにするくらいの開発努力は、常に続いていてほしいと思う。
家の中で、ノートPCは、開いたまま、電源を点けっぱなしたまま、置いておかれない。
たいていは、後ろの本棚に立てられるとか、横の電話台の下の空間に差し込まれるとか、そんな風に置いておかれる。
その状態から、すっと取り出し、何ごとかをぱたぱたと打ち込み、また元の場所に戻す。その行動イメージをどれくらい軽くできるか。
この場合において、PCの物理的な軽さや薄さは、OSの立ち上がりの速度と同じくらい、心理障壁になりえる。
ミーンワールド症候群
Wikipediaページ
英:Mean world syndrome)とは、マスメディアの暴力関連コンテンツに長期的に、中等度から重度にさらされることによって、人々が世界は実際よりも危険であると認識する認知バイアスのことである1。日本語では「ミーン・ワールド・シンドローム」と表記されることもあり、直訳では「意地悪な世界症候群」である。中国語では「邪惡世界信念」「險惡世界症候群」と表記される。
1970年代に「ミーンワールド症候群」という言葉を作ったアメリカ・ペンシルベニア大学アネンバーグコミュニケーション大学院学部長のジョージ・ガーブナー(英語版)は、暴力的なメディアが個人の態度に与える影響に関する研究を始め、「文化の物語を誰が語るかが人間の行動を支配する」という大きな文化的変化が生じていると主張し次のように述べた。
「ヒューリスティック」という言葉が思い出せなかった。
作ったごはんを残されたら悲しいか?
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https://note.com/88410616/n/nfba4ad3f11f1
今まで考えや立ち位置が近いと(勝手に)思っていた人が予想外の言動をすることで、(勝手に)見損ない、見限り、手のひらを返して人格を否定し、攻撃する。
それこそが「是々非々」であり、「敵・味方主義」から自由であると思う人も多いかも知れないけど、むしろ逆だと思う。
「自分と考えが違えば、平気で手のひら返し、見限り、見棄て、人格まで叩き、ときには揚げ足取りまではじめ、貶める。」
これが「敵」への攻撃でなくてなんなのだろう?
単に、「味方」から「敵」へとオセロを裏返しただけではないのか。「敵・味方主義」そのものではないのか。
だから、最初の発言に戻る。
物事を考えたり、向き合うっていうのは本質的には孤独なものだ、と。
https://note.com/88410616/n/nb832af9d33e1
や、むしろテレビはしっかり原発事故報道から学んだのではないかな? 学ばなかったのではなく、むしろ「学んだからこそ」今の報道姿勢なのでは。メディアは原発事故報道で政治利用の偏向やデマを散々飛ばし続けてもマトモなお咎めなしで散々「味をしめた」のだから。
「反権力」さえ掲げれば正義…みたいな価値観は、メディア主流の間ではあれほどの原発事故を経ても変わらなかった。むしろ強化されてしまった。日本の社会も、メディアの「放射能デマ」への大々的な批判や追及もまともに無いまま、その横暴を許してきてしまった。
その「需要」とは、どういうものなのか。多くの人にとってマスメディアは、社会で何かが起こったときにそれと関わるための、数少ない窓口だからなのかも知れない。私見だけどね。
夕方の子供番組「天才てれびくん」では、テレビの前の視聴者(子どもたち)を「茶の間戦士」と呼んでいた。ワイドショーをはじめとした煽動的な報道や陰謀論に根強い需要がある理由は、「大人の茶の間戦士」、あるいは「一言居士」や「事後諸葛亮」達の自己実現、承認欲求を満たすことなのかもしれない。メディアに煽動されて陰謀論にハマって使命感に燃える、テレビの前の大人に向かって「茶の間戦士」
しかし、そもそも社会とは多くの人の「お気持ち」の集合体で出来ているものでもあって。「お気持ち」こそが、社会を動かす大きな力でもある。古来から人心を「鎮める」ことこそが政治であり、宗教の役割でもあったのも、良く知られている通り。
マスメディアが多くの人が社会に関わるための自己実現の拠り所となり、人心の無念を「鎮める」機能を持つならば、功罪の「功」の全否定もできず。
しかし、だからといってデマで社会不安を増大させ、かえって人心を鎮める以上に乱す機能の方が先立つようであれば本末転倒でもあるし、
https://www.musashino-higashi.org/education-center/senjumessage.htm
日本語の「自閉症(あるいは自閉)」は英語の「Autism(オーティズム)」の訳語なのですが、この二つの言葉には、かなり語感の違いがあるように感じています。Autism はギリシャ語の「自己(autós)」が語源となっており、外部の力や操作によらず、自律的、自己完結的に動く、といった意味になります。オートマ(AT)車の「オートマティック」や、自動化を意味する「オートメーション」などに含まれる「オート」も同じ語源から来ています。この「オーティズム」が日本語に翻訳された際、自己を表す「自」に加え、外部に向かって閉じた状態を表す「閉」が加わって、「自閉」という語が当てられたようです。
「社会はリベラルに運営し、個人としては保守的に生きよ」…〈21世紀の道徳〉が教えること
相反する立場を支持することになった。規範に関しては、感情よりも理性を優先するリベラルな主張が望ましい。
他方で、価値に関する議論では、保守的な主張のほうが支持できるのだ。この違いは、規範とは自分以外の多くの他人が関わる「他人事」であるのに対して、幸福や愛情などの価値は自分自身やごく身近な人たちに関わる「自分事」であることが原因となっている。
⇒まあそうなるよね。
しかし、感情とは異なり、理性を用いた思考とは「前提がこうであるなら、このような理由から、こうするべきだ」といった風に言語化することができる。そのために、理性は修正することができて、拡張させることもできる。したがって、理性は「生存と繁殖」や「自集団内での協力」とは異なる用途に使用することができるのだ。
功利主義は、もっとも理性的な倫理学理論であると考えられるからだ。
逆にいうと、ほかの倫理学理論は、多かれ少なかれ道徳感情に影響されてしまっている。
⇒それはそうなんだけど、旧来の価値観を指標としないと、なにを測定すればいいかも分からないし、
共有地の悲劇を自律で抑え込む、というような統治もやりにくくなる。
⇒また、「理性的な態度」って、習慣や文化的な素地が多いと思うので、日頃感情的に生きている人は、議論や「思考」も感情的なものにならざるをえないのでは? という懸念はある。
保守的なものにならざるをえない。快楽や充実感などの幸福に関する感覚は、それらの報酬を与えることで「生存と繁殖」に貢献する行動をするようにわたしたちを誘導する、進化によって身に付いたインセンティブ・システムだ。
ただ快楽を充たすことを目的にした生き方には際限がなく、不幸につながりやすい。それよりも、「自分にはどんな能力があってどんなことに向いているか」という強みを発見したうえで、人生の目標を定めて、やりがいのある仕事に就いて、自分の能力を発揮して自己実現することを目指す生き方をするべきだ。
また、大多数の人にとっては、信頼できるパートナーと恋愛したのちに結婚をして、子どもをつくるほうが、そうでないよりも幸福になりやすいのだ。
⇒出た、「自己実現」。
⇒果たして本当に、自我や価値観は、最上位階層では一つに収束するのか。
統合的自我や使命感、天職感というのは、持てるものなのか。
しかし、昨今では、常識に反する議論のほうが流行っている。たとえば、「やりがいのある仕事に就く」「能力を発揮して自己実現する」という目標を持つことは、労働者を搾取して経済をまわすために政府や資本家や権力が人民を洗脳して植え付ける、自己責任論的で新自由主義的なイデオロギーである、といった批判はあちこちで見かける。
また、「人生にとって恋愛とは大切なものである」「結婚したほうが幸福になりやすい」という主張にも、女性や性的少数者を抑圧して男性や異性愛者にとって都合のいい社会を維持するための家父長制的なロマンチック・ラブ・イデオロギーである、といった批判がなされてしまうのだ。
これらの批判は、必ずしも的外れなものではないかもしれない。そうした議論が少数派の人々にとって抑圧的なものになってしまう事態は避けるべきだろう。しかし、大多数の人にとっては、常識的な幸福論を参考にした生き方をするほうが、結局のところは幸福になりやすい。
⇒法ではなく道徳で統治しようとする傾向の強い国体の場合、ひずみが生まれやすい。
⇒その成分は、どんな国体であっても、ゼロにはならない。
⇒個々人の幸せを最大化する、あるいは後押しするような国を作りたい、と願うと、結局は保守を押し付ける国家が生まれないだろうか?
少なくとも、マジョリティに対して、「その人格や認識をアップデートせよ」と要求することは難しくなる。
⇒あと、NIMBY的な覆面も生みやすいだろうな。
⇒結局、外界(他人であれ、社会であれ、自然であれ、場合によっては本能すら)が、個体の生存に対して完全に優しい体系をしているわけじゃない以上、どこかに葛藤や矛盾を抱えることになるよね。
https://note.com/nokiba/n/n820253348257
他人を外側から眺めているだけですと「他者も弱そうだ」と感じることはめったにありません。他人の痛みは実感されません。外から見る限り腰痛や肩こりも、「疲れ」も「コンプレックス」も目には入らないものです。
目に見える「他者」の強そうな光景と、「自分」が実感する痛みや弱み。自他には最初から「他者は強くほぼ無敵、自分は弱くてもろい」というバイアスが含まれているのです。
https://note.com/rashita/n/nf6f43124d257
という関数にまとめたところ、見事にコードがすっきりしました。うん、グッドリファクタリング。
と思っていたのですが、そうやってコードを抽象化すると、当然のようにすべてのファイルは同様の形式で出力されます。見た目がまったく同じになるのです。
もちろん、上記のようなリファクタリングをした上で、個別のファイルの読み込み方に独自性を持たせることはできるでしょう(オブジェクト指向のオーバーライドはそういう仕組みに思えます)。
一方で、そうしたコードを書くのもまた「私」であり、その「私」が面倒さを感じると、コードはそのままの状態になります。優先順位による取捨選択が働くのです。
でもって、企業によって開発されているソフトウェアにおいても、使える資源には上限があり、
スゴ本と読書猿が映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を語り尽くす - はてなニュース
民主主義は成り立たないものだからいらないのか、排除していいのかというと、それもそうではない。実際の、機能してる民主主義って「鉄筋コンクリート」だという話をしようかと思っていたんです。みんなが参加してみんなで決めるという仕組みを成り立たせるために、それとは異質なものを入れる。コンクリートに対して鉄筋という異質なものを入れるみたいに。
民衆はだいたい私利私欲に走るし、視野も狭いから、一方に傾くと一気にわーっと流れてしまって*12、そこから衆愚政治、独裁になりやすいということも経験的に分かっている。
アメリカには王さまも貴族もいないのに、王さまを作ろう、と。それで大統領にした。貴族(的な階層)を作ろうとして、わざわざ上院と下院に分けた。