2021/07/21-2021/07/31
国家なき国民は国民にあらず
いや、一気には読めんw 疲れる。
ノート論というタイトルでは売れない
書く回路が刺激される本
あっ、この間隔、何かを思い出させるぞ。なんだ?! 恩田陸じゃないな。手塚治虫? 藤子不二雄ではない気がする……、あっ、萩尾望都か?! と悶々。
2021年時点の今のフランスの成人のあいだでは、未だに「アジア人のステレオタイプ化を差別と認識しない」という考えが多いです。グリズマンがアジア人にチンチョンチャンというのが差別だと思っていなかったとしても不思議はありません。
揶揄やジョークで気軽にステレオタイプを押し付けてくる人たちの多くは、自分の言動が差別だと自覚していません。
⇒うーん、ステレオタイプは差別だと直結していいのだろうか?
それを封じられると「表現」が事実上不可能になるから、人類全体で慎重であってほしい気はする。
とはいえ、ステレオタイプ脅威を本人達に与えてしまうとすれば、人類全体の可能性を上げることにはならないわけなのかな。
2. 「中国人じゃないなら、私が言ったのはお前のことじゃないだろ? 私は中国人と言ったんだし、お前が中国人じゃないなら関係ないだろ?」
3. 「人種差別というのはホロコーストとかのことで、これは違う。これはただのユーモアだ」
差別する側は「差別の自覚も意図も加害してやろうという積極的な悪意もない」かもしれませんが、相手を人種・性別・体格もしくは「どうせ言葉がわからない」という前提で舐めてかかっているからこそ、気軽に衝動で、相手にどう思われるかを無視した差別的言動ができるのだと思います。
その証拠に、筋骨隆々の身長180cm超えのアジア人男性相手に「シノワシノワチンチョンチャン」と通りすがりにゲラゲラ笑いながらいう「ユーモア」を開陳する人は、麻薬や酒で自己防御本能が外れてない限りほぼいません。
そういう意味で、やった人はどんなに「悪気はなかった」としても、やはり弱者(と自分がみなしたもの)に対する攻撃なのです。こうした人達にはまず、こちらが不快であり差別的・侮辱的であると思っていることを表明しないと「やってはいけないこと」というのがわかりません。
声をあげられないことは恥ではありません。恥ずかしいのは差別をする人です。ただ、声をあげないと、いつまでも「差別」だと認識してもらえないのです。
サッカーフランス代表の一件で、フランス在住の著名な日本人が「酷い悪口ではあるが人種差別ではない」といったツイートをしたことが話題になりましたが、勇気を振り絞って声をあげた人たち(わたしたちのために声をあげて状況をかえていってくれる人たち)を「たしなめ」たりするような行為は避けたいものです。
一方で、そうした活動は高度であるとも感じます。高度というのは高い次元ということではなく、日常生活の一つ上のレイヤーに位置している、ということです。別の言い方をすれば趣味的、ということです。実務に関係することであっても、少しだけそうした切迫感からは遊離している雰囲気があります。
⇒あっ、言っちゃったw
モデル化はそれがモデルであることが共有されている。つまり、単純化の合意のもとで形成されている。比喩と似たような働きである。そこには「あくまでモデルでしかなく、現実の事情はもっと複雑である」という認識が前提されている。
⇒経済理論とか、ちょっとあれでしたけども。
科学者の実験がそうするように、環境や変数を制御したときにのみ「この方法でうまくいく」が言えるだけだ。
しかし、パソコンのカスタマーセンターに電話をかけるときにでも、パソコンの機種やメーカーを尋ねられるだろう。
そうしたビジネス書は、自書が提案する方法の強力さを徹底的にアピールする代わりに、他の方法をとことんこき下ろすか、ないしはまったく紹介しない。
⇒ああ、それは嫌だな。
まあ、「紹介しない」程度であれば、そもそも私はジプシー気味だろうし、勝手に類書を探して読んで、適当につまみ食いするだろうけど。
たしかに数年前までの私はそういう目論見を持っていた。たとえば知的生産の技術を「体系的にまとめる」ことを欲していた。
その体系が、論理的に構築されたものであればあるほど、実践には役立たないのではないか、という疑問がある。そうした体系は「標準的」過ぎるのである。
⇒あー。
考えたことはなかったけど。
こと知的生産に関しては、各々の実践者が自分自身相手にインタビューできる素養が期待できるという点で、他のジャンルとは異なった性質を持っている
⇒w
逆に言うと、ノウハウの情報部分だけを見れば、誰のノウハウであっても大差はないと言える。なにせ同じ人間なのである。そこまで突飛な違いがあるとは思えない(「私は逆立ちしながらでないと文章がうまく書けないんです」)。
⇒言っちゃったーw♪
そこに至るまでの道のりや、自分なりの試行錯誤、そしてさまざまな思索と共に語られているならば、それは立派に価値を持つ(価値を見出されやすくなる)。
⇒読むのが疲れる系の本になるだろうけどね。
中規模くらいの文字数だと、「親しみやすさ」が読みやすさを生んでくれるんだけど、大規模に収集してしまうと、ヤマやオチや強弱がなくなって、すごくかったるくなりそう。
読者の存在を感じさせてくれた。そのことは、私の本の売れ行きに何の確約も与えてくれはしないが、少なくとも「賭ける」ための勇気は与えてくれる。それで十分だ。もともと執筆はバクチであるのだから。
⇒そういうことかー。
そもそもこの「顔がいい」というフレーズ。気持ちとしては見た目だけを指しているのではなく、「演技もうまいし歌もうまいし踊りもうまいし面白いし声もいいし性格も優しくて周りに対して気が遣えて礼儀正しくて男気があって、なのにちょっと抜けてるところがあって、そのポンコツさも含めて全部いとしい無理」という推しに対するあらゆる賛辞が脳内で核分裂を起こした結果、「顔がいい」しか出てこないというのが実態だったりするのですが、そのありあまる行間を推しに察してくれというのも勝手な理屈。
お芝居って正解のないものだから、最終的には心に響いたかどうかが判断基準。難しいことは考えず、自分はいったいこの人のお芝居の何がこんなに好きなのか一生懸命突きつめてみます。
たとえばドラマなら、ハッとしたワンシーンをまず切り出してみる。そして、そこで推しが何をしたのか(あるいは何をしなかったのか)細かく因数分解していきます。
たとえばラブシーンなら相手を見つめたときの目の潤みにグッと来たのか。あるいは、ふっと一瞬視線をそらしたときのたじろぎに感情が伝わってきたのか。もしかしたら、表情だけではなく、相手を引き寄せたときの腕の力の強さに、鼓動の高まりが漏れ出ていたのかもしれない。かすかに震える唇にリアルを感じることだってあります。
ふわっといいと思ったものを、一度立ち止まって、なぜそう感じたのかを考えてみる。これ、やってみるとめちゃくちゃ楽しい時間で。
その上で、推しの芝居にふれて自分の状態がどうなったのか言及してみる。このとき、なるべく「好き」とか「うまい」というざっくりした単語は一旦禁止にしておくのがポイント。頬が熱くなったのかもしれないし、心臓がぎゅっと締めつけられて息ができなくなったのかもしれないし、全身から力が抜けて立ち上がることもできなくなったのかもしれないし、体の内側で無数の小さな爆発が起きて居ても立ってもいられなくなったのかもしれない。心の中に起きた現象を、支離滅裂だって構わない、何か言葉にすることができたなら、今までよりももっと彩り豊かに推しについて語ることができる。