2021/07/11-2021/07/20
クルミドコーヒーつながり
『世界は贈与でできている』
『自分をいかして生きる』
このsbに書いてきた文のいくつかや、
ブログに書いたような文をいくつか
wordファイルに貼り付けて印刷して読み返す、ということをやっているのだけど、
いやはや、色々なことを書いてきたものだな。
カキフライについて書きすぎているものから、カキフライについて外していく作業
京アニの事件、私には「京アニの作品で好きなのがいっぱいある(あった)」という感慨がなかったので(嫌いだってことではなく、彼らが頑張ってた頃にアニメを(超子供向け以外は)見てない生活だったから)、“人がくだらない理由のせいでたくさん死んだ痛ましい事件の一つ” という以上の実感はたぶんなかったんだよな。
だから、もうすぐ2年とかそういうことでじわじわと意識してしまう感覚もなくって、ただ夏だった。
でもって、「どっちなのかよくわからない書き方」って私にはマイナスポイントでございます。そっちに気を取られてしまう。
まあ、別世界線があったとしても、そっちで生き直すことができないのなら、ある意味では同じなのか。
異世界交信であれ、過去の伏線が予言的に噛み合ったんであれ、それで主人公は頑張れるようになる、ってところが実は主題なのだから、そこを味わえばいいのだろうか。
うーん?
どこのデータか言わずにばらしちゃうけど、反ワクチン系のアカウントクラスタの立憲との親和性高いんだぜ
⇒「現政権ではこの提言は聞き入れてくれそうにない!」という人たちが、それぞれの思惑で野党のもとに結集しちゃうのは、いちおうありえること。
そのときその党としては、「票田としては上手に使いつつ、政権公約にはちらっと配慮して盛り込みつつ、いざ政権を取ったら、“やるやる詐欺”」ってのが一番賢いのだろうけど。
(バッサリ切り落として自浄作用を外部に示す、ということの難しさよ)
まあ、別のどこかの党に似ていますな。
「党内にも反対意見があり」ってのは、そういうことなのかもしれませんわな。
90年代サブカルは地獄だった。95年頃が一番のピークだったと思う。メディアは「悪趣味」を持て囃した。他人の家のゴミを漁って記事にしたり、殺人事件を起こした者がAVに出たり。清く正しく美しい80年代への反発と、経済の破綻に対して社会がヘドを吐きまくった時期だった。
小山田圭吾もその空気に乗っかったインタビューしちゃったんだよな
⇒当時そうだったか? と思い出そうとしたけど、その頃には別にサブカルをウォッチしてなかったたろうしな。
『磯野家の謎』とか出てたころかな。いちゃもん付け本。
⇒あー、『完全自殺マニュアル』か。あったあった。なるほどな。
ネットすら無い時代の、ネット右翼陰謀論みたいな、“その辺じゃ手に入らない情報”みたいなのを開陳して喜んでた時代が、まあ確かにあったわな。
あと、「閲覧注意」系な。ついつい覗き見したくなってしまう心理。
そういうのを、悪ふざけで、あるいはどんどん極めるつもりで、突き進んでいた時代性があったと。
(まあ、発言行動はともかく、やったことはやったことなわけで、「盛って」たんでないかぎり、どうにもならんわな)
社会は人がメランコリーな状態でいることも、生産性が低下した状態でいることも、許容しないからだ。「許容しない」といって語弊があるなら、「忍容できない」とでも言い換えれば良いだろうか。
⇒足手まといを抱えられないもんな
とにかくインプットが不足するとモチベーションってのはすぐ枯れるんだよ
アルツハイマー病の初期徴候がある人には、安静時脳活動に 通常とは異なる特徴がみられ、そうした異常は、たとえ認知症が非常に軽度でも検知でき、また、認知症の進行度によって変化することもわかっている8。また、自閉症スペクトラム障害の子どもでは、自閉症でない子どもに比べて安静時ネットワークが「過剰に結合」している場合がある9。
「あったら便利か」と聞かれたら「たぶん、便利」と答える頻度でしか使わないからです。そういう用途のためにちまちまとデータを入力しているなら、嫌になっても当然でしょう。
もちろん、そこまでややこしいことをしなければいいわけですが、ややこしいことをしないなら、その他のツールでも問題ないことになります。つまり、機能における優位性がそこで消えてしまうわけです。
⇒自分が労力を維持できる範囲でしか、ツールの機能は必要ない
機能の大(多)は小を兼ねない
⇒若いうちは、使ってるうちに力が伸びて、「機能が物足りない」と感じるようになったらどうしよう、という不安もある
どうせしばらくは「口をきいても気まずいだけ」だったり「相手は口もきいてくれな」かったりするのなら「仕事や読書にでも集中していたほうが気がラク」だと「あえて思わなくもない」からです。
げんにわたしも「あえてそのように考え、仕事にでも精を出そう!」としていたころが長かったのですが、実際にはなかなか「精が出ない」。
この種のテーマでよく持ち出される
「心の中で自分を叱りつけた母親をゆるす」件についてもついでに考えます。
論理を詰めていくとなるほどこれは納得できます。
しかしわたしに関していうと「母親をゆるし」てもあまり効果が実感できません。
それよりも「母親に叱られて、みじめでみっともない自分」をゆるしたほうがはるかに効果が実感されます。
けっきょく、妻に叱りつけられて、みじめでみっともない自分は、じつはべつにみじめでもみっともなくもないように思えたとき、妻との関係は正常化されます。