2021/07/31
#採掘場
友情ってものにずっと憧れがありました。恋愛についてもです。家族についても、かもしれません。
でも、友達づきあいというのがなかなかに苦手です。それについて、昔は、「一歩を踏み出す勇気がないから」だと思っていました。
また、こういうことを考えたいる人は、周りからは「上手に“甘え”られないから」とか、「心を開いていないから」、とかそういうアドバイスをされがちです。
「人間は誰しも、一人では生きられない」「人間は社会的動物だから、孤独だと精神に負荷がかかる」なんてことも語られるやすいです。
ただそれも、一人暮らしだったころならともかく、今は人間関係にお腹いっぱいという心境もあり、違うことを考えています。
スポーツに対して、「する派」と「見る派」という言い方が俗にあります。
要するに、疲れたくなかったり、時間を作れなくなったり、インドア趣味の傾向のほうが強い人が、
「スポーツやりますか? 好きですか?」
と問われたときの切り返しとして、
「する派というより見る派なので」
という言い方をしていたことによるのでしょう。
ただ、運動部にいちども入ったことのない人が、プロ野球の観戦は熱心にしたり、サッカーのワールドカップはのがさずに見たりすることはあるわけですから、単なる言い訳としてだけではなく、
「見る派としてスポーツが好き」
という言い方は成立していい気がします。
そして、適度で日常的な「運動が健康にいいのはほとんど確かだとしても、誰もが競技スポーツをしなくてもいい」ように、「誰もが大恋愛のコストを払ってまでその絶頂を味わわなくてもいいよね」「誰もが友情ドラマの中心にいられることの、大充足感を体験しなくても、人生経験として十分だよね」「“見る派”くらいの熱量でいいじゃん」
ということはできます。
私は、「物語」が大好きなので、「大恋愛」とか「自分の思うことを他人も当然のように肯定してくれるほどの、友情」みたいなことを、さんざん人生より先に味わっていました。
だから、
「いつから自分にもこんなことが?」
という期待がある時期にありましたし、“憧れ”としては、今でもこの胸の底にはあります。
でも、それって「恋に恋してる」ようなものなんですよね。
「無私に誰かに思ってもらえる」
ことへの憧れはあるけど、その“誰か”の候補になりそうな人の一人一人の、家族構成や困っていることを気にかけておいてあげたり、その人たちの非建設的な愚痴に時間を割いて付き合ってあげたりすることには、現実的には“まったく”食指が動かないので、友情とか絆というものは、私には身に余るものなのでしょう。
現実世界では、私の手に負えるような負荷では得られない種類の脚光なのだろうと。
実際のところ、そんなに他人の動向や態度に気を払っているくらいなら、私は脳内にこもって、もっと楽しい妄想や思考の中で遊んでいたいですから。
友情に憧れはあるけど、人間に関心はない。
友情“見る派”宣言、です。
現世には出稼ぎにきている感覚
私は四十代で子供もいます。管理職ではないものの、会社の中ではベテランです。鏡で顔を見ると、日々「はりがなくてぼんやりした顔になってきたな」ということを思います。
ところが、ニュースで「日本はオッサン文化が支配している、だからこのままではダメだ。変わらないと」というような煽り文句を見ると
「そうだそうだー!」
と思います。
なんと、若者側の視点でいるということになります。
これは、客観的な他人から見たら、滑稽な状態かもしれませんが、私からすると実際にはもう少し先があります。
「魂はもともと、年齢とか性別とかそういう縛りから解き放された無色透明な存在で」「その本来の居場所は頭の中」という感覚があるのです。
毎晩、部屋の明かりを消して、「本日の業務はこれにて終了」と思うとき、心は別の惑星に帰っていき、
朝になると、肉体に乗り移って“生活”しに来る。
ある意味で、現世の生活は、遠隔操作ロボットやアバターを使って、そのメンテナンスに必要な部品や資金を集めている感覚のほうが強い。
「できたら、脳は脳だけで生きていられたらいいのに」
くらいの感覚まであります。(もちろん、私は唯物論的な思考をするので、肉体を失って霊だけ残るなんてことはイメージできません。だから、肉体にエサをやるための労働と、それのもととなる社会基盤の維持は一所懸命やろうとは思っています。
「人には、帰るべき居場所がある」
みたいな標語を目にするとき、それは家族の中とか、友人の輪とか、コミュニティーが想定されているのだと思いますが、私からすると、“還るべき世界”というのは、脳の中にあって、落ち着いて安全で完璧な世界のことで、現実の世界というのは、地域共同体だろうと友人だろうと、不合理や不条理や雑味が多すぎて、外国に来ているような感覚です。
そこでストレスを感じたら、帰りたいのは心の中ですし、しがらみに疲れたときに行きたいのも、心の中です。
これはどうなんだろうな、私だけなんでしょうか。皆さまはどうですか?
SNSでの政治的発言
私はSNSの中でTwitterが好きです。匿名でできるので、リアルのつながりの同僚や友人に発言内容を冷やかされたり、“人でなし”と思われることもないので、多少は内面的なことや正義漢ばしったことも書くことができるので。
「FF外から失礼します」という挨拶ができる前から愛好していて、メモ代わりに大量の「お気に入り」をしたりします。
Twitterは文字数が少なくて手軽なので、テレビ番組を見ていて、
「えっ、今のセリフ、冗談みたいでおもしろいんだけど」
というような小さな反応が上がっていることがあり、それを検索で見つけられると、
「あっ、こんなことに気付くの、自分だけじゃなかったんだ」
と嬉しくなります。
そうなると、あとで探さなくならないように、反射的に「お気に入り」をしたくなるわけなのですが、最近は少し勢いが鈍るようになりました。
「お気に入り」もまた、(私の)フォロワーさんに流れてしまうことがあるから、ではなく。
「お気に入りを押された発言者さんが、押した私(見ず知らず)のことを、『誰だコイツ』『いきなりブックマーク付けられて、後で何かされたら怖いなあ。念のためこのつぶやきは削除しておこう』と思ったら、悲しいな」と思うからですね。
そんなことを感じるようになったのは、ニュース、特に政治的な話題が、おすすめキーワードからまとめて紹介される仕様になったことが要因の一つとしてあります。
「よくぞ言ってくれた!」「鋭いな、この意見」「そうか、そんな視点もあったのか」というツイートに出会ったとき、私のほかにお気に入りがまったく付いていなかったり、プロフィールを読むとフォロワー数が十数人だったりするわけです。
そうすると、そのキーワードがTwitterにピックアップされた、もともとの原因は「大手メディアが報道したから」だったりしたのだとしても、そのつぶやきがその検索結果のフィードに入ってきたのはむしろたまたまで、「その人は“多くの人の目に付くこと”を望んでいなかったのかもしれない」
という予測が生まれるようになったわけです。
そうなると、そういう人にクソリプしてしまうことももちろんですが、お気に入りを付けてしまうことも憚られるようになるわけです。
*政治的ツイートに気をつけなければならないのは、有名人だけでなく
そう考えると、同じくフォロワー数も大していない状態で気楽につぶやいている私もまた、政治的なツイートをキーワードを込みでつぶやくときには、不特定多数の目に、まるで運営者から紹介されるかのように表示される可能性がある、ということになります。
能動的に探さないと見つけられない、「埋もれた大衆」という感じではなく。
有名人の政治的なツイートが批判を浴びがちなのは、政治の専門家ではない人の意見が、多くの人の目に触れることで大きな影響力を持つ、と、多くの人に思われることによるのだと思いますが、その条件が、一般人にまで当てはまる可能性が出てきているわけです。
これはかなり気を付けないといけない、という気がしています。
そこは視聴の感想を書くところ
物語をたくさん読み、そのためにたくさん買いたい、となると、アマゾンのレビューを読むことが増えます。
話題になっている本、ランキングに入る本だけでは、母集団として少なすぎるのです。
星5の人が何を書いているのかも参考にしますし、星を下げている人が何を書いているかも参考にします。
そうすると、ときおり残念なことに出くわします。
Amazonのレビューをしている人に、例えば本で、
「届いた本のページがよれてました」
ということで低評価を付ける人がいる。
「いや、本のレビュー点数は、本の内容に関することだけにしようよ」
「もし、それが中古とかだったら、ショップを評価する点数は、別途付けるところがあるよ」
ということを教えたくなる。
しかし、さらにもし、amazon本家で新書で注文して、ページが折れていたりして(とても悲しい)、
その「『ガッカリした!』
という、この私の気持ちをどこにぶつければいいのか!
評価とかじゃなくて、この感情のぶつけ先をまず探したいの、今は!」
……、となっている人なのだとしたら、
その人を教育することはできるだろうか。
その人にかける言葉はあるだろうか。
☆の数は、作品の内容への評価になってくれていないと、次にそれを買おうかどうかで迷っている人の参考になりません。
配送で待たされたから、配送業者についてのマイナス評価をどこかに訴えたいとか、中古で本を買ったら、ページが折れていてがっかりしたのに、業者が返金に応じてくれなかったとか、そういうことは、Amazon中央の「作品の内容評価」に書くものではありません。