2021/06/11-2021/06/20
スプラトゥーンは、なんでNPC(CPU)3人の味方と4人の敵と、人間は自分一人で、陣取りゲームをできないんだろうな?
いや、「サーモンランだったら、敵がCPUですよ」とか「一人で遊びたいなら、ヒーローモードがありますよ」って、そういうことじゃないんだよな。
嫌がる人間から、まずやる人間に変わらないといけなくて、個々の仕事にやる気が出るか出ないかはその次。
アドレナリンだったり何かなのかもしれないけど、別の方法で出してからやっても、割と仕方ない。
役割とかプライドとか、そういうトップダウンなものが、心情に色を付けるし、それが
創造的欲求とはどこから来るのか
刺激に遊んでもらって元気を出していると、物足りなくなってくる。
楽で勝てて、つまり楽しいばっかりならいいだろうか、というと、それも違う気がする。
相手がやめてしまったら終わりだから。
疲れさせられるのが嫌だ、無駄にならないことがしたい、という深部の欲求があって、知的生産や徳目の向上のような習慣はそういうところから出てくる気がする。
分析して能力として取り込むか、お返ししてあげて、関係を相補的なものに持ち込むか。
縛られた道徳から
武士は食わねど高楊枝
企業は、無辜の個人の脅かすときは、自らその機会を捨てて欲しい
親は強くあらねばならない
動的充足と社会的に気高くあること
チャンネルがあると書きやすいが、そこで書きにくいものは書けなくなる。
別の世界の人に話そうとすると、具体名を隠さなくてはいけなくなるので、それだけで思考のメタ度が上げられる
「火さえ通ってれば、焼肉のタレかけるのが1番美味しいです」的料理がたくさんほしい。
よし、やってやるか
子育てでかかる負荷はハンデ戦。
お金も、不安も、労力も。
重りのない人はうらやましい。
どうも先の戦争責任を政治家や軍部のせいにし過ぎるのではないかと感じる
国民が政治家や軍部を作ったのではないか
それを今の新型コロナウイルス感染症対策に対する批判にも感じる
有識者が自説を順番に述べていって議論を戦わせない会議なんか止めてしまえ
新型コロナウイルス感染症対策するのに、何で首相が心苦しく思ったり、国民にお願いしないといけないのかわからん
国民が自分たちのために、色々、対策したり、我慢したりするんじゃないのって思う
何でもかんでも国のせいにするんじゃないよ、甘ったれ国民が
本当にいろいろなものが上がってくると思います。
でも、ルールとアクションがなければゲームではない、などとは思っていません。 益田
例えば、好きな花の絵をたくさん描いてお花畑をつくってもいいし、そこにUFOを飛ばすようなアニメーションをつけて楽しむ、みたいなことだけでも十分素敵だと思います。
もちろん、自分でつくったものを他人に見せて、感想を聞いて、もっと面白いゲームにしてやろう!
というモチベーションを得ることも大事だと思いますが、それよりも自分自身の手を動かすことで得られる自分なりの発明や発見を楽しんでほしいですね。
現代社会は(中略)趣味の領域で何者かになり、職業の領域では何者にもなれていない気持ちのままでも十分生きていけます。ところが職業と趣味の乖離に耐えられない人もなかにはいて、
挨拶・礼儀作法・マナー・清潔感などは、(中略)身に付けるとコミュニケーション能力が劇的に上がるものではなく、身に付けていないとコミュニケーションの成功確率が下がってしまうタイプなので、がんばって身に付けてもそれだけではモテたり人気者になれたりしません。「何者問題」を解決したくてウズウズしている人にとって、これは動機付けとして弱いでしょう。
また別の会社では、社長が会社の金を怪しげな投資につぎ込み、本体の事業が危うくなっているケースもあった。
話を聞くと「マルチまがいのことを始めた」という。
社員は社長を全く褒めないので、マルチ組織の中で認められていくのが、心地よかったのだと聞いた。
噛み砕いて言うなら、「営業の自由」は「表現の自由」や「報道の自由」などに比べると、簡単に政府による規制の対象となってしまうのである。このようなかたちで経済的自由を精神的自由に対して劣位に置くのは、「知識人」特有の偏見なのではないかと法哲学者の井上達夫は論じた。 全体として憲法学は大企業を念頭に置いた消費者保護・環境規制や競争政策のほうに関心をもっていかれがちで、普通のありふれた中小事業者の「生存」と「人格実現」がかかった「営業」に定位した議論が希薄なのである。
そもそも、なぜ「精神的自由>経済的自由」なのかというと、前者に含まれる言論・出版の自由は、民主的政治回路を健全に作動させるための必須条件であり、それがいったん損なわれると回復困難なダメージが政治社会にもたらされるからなのだと説明される。
●社会人ロールプレイ
むしろ、いつの間にか自分は、社会をやたらに怖がらなくなったなー(感慨)、っていうのの方が、大きいような気がするのです。
同人活動をするために、仕事をするのですが、いよいよ仕事を手を抜くわけにはいかないなーとも思うようになりました。「同人活動にのめり込んで、仕事がおろそかになる」ってパターンは、なぜか行きませんでしたね自分の場合。
学生時代から、いろいろ病気を持っていました。ある程度生活できる、っていうところで、仕事をちゃんとやるようになりました。
そのあたりから、一応社会人ロールプレイ(コスプレ)が始まったんですね。
「社会人」というキャラロールを重ねて「へー」とわかったのが、「みんな結構頑張ってるんだな」っていうこと。少なくとも、自分の同業者には寛容になりましたね……自分が持っていた「お客様意識」がどんどん減っていきましたね。そういう類推が出来るようになりました。
正直、自分が作曲できるようになったことよりも、「社会の末席で少々はやれた」ってことの方が、「何者問題」を無効化さしていったなー、という感じがします。プラスを積み上げていったというより、マイナスを除去していったニュアンスです……。そうか、自分も発達したんだなぁ……適応したんだなぁ……
別に「社会と仲良くしよう、世間を愛そう」ってしたわけではないんです。
今も、社会とは距離を置きたく思っています。もともとの自分の性質が非=社会的傾向が相当あります。反社会的、ではないです。反抗するほど、社会というものに価値を見出していないんです。昔から。
ただ、「そんなにビビらなくてもええやん」と、どこかで思えたんでしょうね。それまでの自分は結構狭いところでビビっていたと思うのです。
話が前後しますが、自分は、小説を書いていたときは、痛切にこれを感じていました。小説を書いてプロになって一発逆転だーっ、みたいな。うわぁ。
何らかのルサンチマン見返し欲望があった。……薄々は「チャラにはならんぞ」とは思っていても、「でもなってみなくちゃわかんないじゃないですか……」と無理に自分を奮い立たせていました。
言えないですよ。何を言っても、「いまが楽で、楽しい奴の、上段からかます戯言だろッ」っていう精神。そのルサンチマン精神はすごい覚えがあるから。
ただ「戯言じゃないぞ」とは言いたいかな。
言えるとしたら。わたしは、かつての自分のそういうルサンチマンの時期を忘れているわけではない。あの頃の自分に何らかの贈り物をしたい、と今も強く思っている。それは本当なんです。
そして、そうやって忘れていないってことは……かつての自分がしてきた、正当な努力、間違った努力、見当違いの努力、変な決意、「こんなもの買ってどうするんだ」みたいなジャンク品、かつての自分が見聞きしてきたいろんなもの……それらを忘れていない、っていうことですし、それらは確かに「安定した何者」へ至る、かけがえの無い宝だった、ということです。
最も日本人が理解しにくい部分、それが米国西海岸というよりかは米国全体が共有する自己研鑽の奨励という文化だ。
自己研鑽については右も左も関係がなく、何なら米国内の共産主義者だろうがカルト宗教信者だろうが陰謀論者だろうが自己研鑽の奨励については絶賛する。
この「自己研鑽の奨励」という文化を理解しなければ米国発の文化的思想は何1つ理解できないと言って良いレベルのものと言って過言ではない。
最近の日本では「努力教」などと言って不合理な努力をしたり、努力を社会的圧力により強制されたりすることを嘲笑する向きがあるだろう。
意味がなく不合理な努力を続けるなんて非生産的であるし、私もまた同じ様に感じる。
しかし、米国は自己研鑽の努力をすることへ対して歩みを止めてはならない文化なのだ。
つまり努力の先がなければ努力できる先を自ら探し出し努力をしろという意味であり、米国民の高い生産性はこの精神によって支えられている。
つまり米国には右派のマッチョイズムや左派のマッチョイズム、共産主義者のマッチョイズム、カルト宗教信者のマッチョイズム、陰謀論者のマッチョイズム、様々な思想に合わせたマッチョイズムがあって自己研鑽をしないという選択肢がない。
もし米国内で自己研鑽を辞めてしまった場合どうなるか?
それはつまり米国社会からドロップアウトしたものとして理解されてしまう。
日本国内で恥を捨てた者が問答無用に迷惑がられるように、米国国内では自己研鑽を捨てた者は迷惑で厄介な存在と問答無用に評価される。
キタサンブラックちゃんがソロソンで演歌持って来そう→分かる
キタサンブラックちゃんがまつりを許可貰ってソロソンに持って来そう→色々許可ありそうだがワンチャンスありそう
北島三郎さんがうまぴょい歌ってくれそう→シベリア送りにされるぞ