2021/01/01-2021/01/05
おばけ抜きのお化け屋敷
(社会実験ドキュメント サビ抜きで。 - NHK
〜おばけ抜きの、おばけ屋敷。〜
恐怖というのは警戒態勢を取らせるための本能なので、お化けの現物が現れてしまうと、体の恐怖反応(体温低下とか脈拍数の上昇とか)はむしろ低下することがある。ジェットコースター的変動。
おばけを取って、「お化け屋敷」に入らせると、むしろ恐怖反応は高止まりする。
その緊張反応をさらに高める実験として、お化けの代わりに、自己責任誓約書を書くステップや、コップを一つ選んで飲むという「選択」を加えると、さらに脈拍が上がるデータもあって、……、
仕事ってつらいっすね。
宙ぶらりんのまま判断を迫られる続けるって辛いっすね、ってなった。
たとえば、白人女性のいるコミュニティーに黒人男性が引っ越してきたとして、前者の体格が後者に対して極端に小さかったとする。
そうすると、前者は「襲われてからじゃ遅いし、襲われたとしたら敵わないし」ということで、噂(不確定で微細な情報)をひそひそ集めたり、関わりを控えめにしたり、会うときに身を硬くしたりする。
でも、それがたとえば相手を傷つけていたり、偏見による社会的機会の喪失を生んだりしうる。
偏見や噂で行動を変えないでよ、という後者の訴えも切実だし、
前者の、弱者が防衛的に生きるのは当然でしょ? という訴えも、人情にもっともだ。
で、これは人情では仲裁できないわけだけど、法や権力であってもやっぱり仲裁できない。
夏美さんの胸はいらないし、
私には選択肢などのメッセージウインドウは見えなかった。やっぱり、田舎じゃないのと、主人公が結構能動的(考えなしともいう)だと、そういうのが見えにくい。
「あんなこと答えなければよかった」という、「選択」にともなう“失敗”感。
エピローグ的なパートで出てくる「自惚れるな」
申し訳ない気持ちは、他の全ての活性を弱らせる。
これはどういう防衛機制なのだろう?
ただ、「期待されたら頑張れる」ってことの裏返しではあるように思う。
阻害と蔑視の2軸があったときに、阻害はされているが低置はされていないという人々
上書き貼り付けをしなくなった。
うっかり、貼り付け先の文字列をコピーしちゃうから。
恐れで洗い出して、恐れず実行する。
恐れず先延ばしし、
恐れず割り込ませる。
例えば、平日は寝不足で頭がしゃっきりしない人がいる。
あるいは、就業時間中は対人対応に追われていて落ち着いて考えられないので、残業時間になってやっと個人の作成作業を落ち着いてできるという人がいる。
そこまでいかなくとも、新年に、というよりは、おそらく「正月休みに、」新年の抱負をみんな考える。
心や意思や、意識や思考に波があって、最高になかなか到達しない人は、そのときに考えたことを、低調な時期や、次の好調時の振り返りのために、書き残す。
そうしないと、自分の意識が今ここにせっかく良好な起動ができていることの甲斐がないからだ。
この世に爪跡を残したい。
世の中の編み目、継ぎ目に、関わっておきたい。
これは人生でもそうではないだろうか。
わがまま人間は口を開いたら開いただけ悪なんだよ、それを分かれ。
「いい子のために協力する」のはわかる。
わがままに対してぶちのめして罰を与えるのもわかる。
なんで、わがままに対してこっちが労力を提供しなきゃいけないんだ
もちろん、報告価値が高くて、目が離せない、なんだか目を引かれるということはあるだろうけど。わざわざ暗くなることはない。
ネットとかで冷笑的と言われたりするんですけど、冷笑では借金できませんよ。こんな何千万も借金してるのに、なんで冷笑的って言われなきゃいけないんだって常に思っている。ハッシュタグ運動みたいに冷淡なのもそのせいですね。ハッシュタグで世の中は変わんねえよ、ハッシュタグで給料を払ってみろよって感じなんで。
いろんな人がnoteやめるとか言ってるけど、noteやめるってどれだけやめたのか、草津温泉に行かないって言ってどれだけ行かないのか。彼らはハッシュタグを打ってるだけでどんどん忘れていくわけですよね。でも、ビジネスはそうはいかないわけで、給料を払うって言ったら給料を払わなきゃいけない。「#給料払う」と打てば給料払ったことになるんだったら、ぼくだっていくらでも打つけど。
配信とかやってても課金にした瞬間に、すごい平和になりますからね。炎上させたい人たちは、本当に課金しないんですよ。
【東】そうなんですよ。だから、じゃあ無料で公開してていいことってなんだって話なんですよね。
——宣伝効果だけなんですよね。
【東】それも将来はどうなるかわかりませんね。いまだってフェイクとかポストトゥルースって言われてるわけで、これから10年20年たったときに、むろんSNSは存在し続けてるだろうけど、もう誰も信用しなくなって、SNSでいくら拡散しても実際の商品はピクリとも動かないっていう世界が来る可能性もあると思うんですよ。そしたら広告料も支払われないだろうし、廃墟みたいな存在になる。
結局のところ信用の問題なんで、無料コンテンツを人が信用しなくなる時代が来るんじゃないかなっていう気がするんですよね。たしかに再生はされてる、一瞬話題になってる、ただそれは結局なんにもならないよねと。ハッシュタグも、もうあきれられてきてる。たしかに検察庁法改正のときのハッシュタグは目新しかった、だから政治も動いた。
商売の実体って結局お金じゃないですか。それを考えると、ホントにTwitterってむなしい世界で。だから逆に、Twitterですごく炎上して「東さんたいへんですね」って言われたって、ホントにたいへんなのは借金とかであって炎上なんてまったく無だと思っていた。
いまのインテリってすごくダメだと思ってるんですよ。
ひと言でいうとみんな大学のサラリーマンで、大学の職を失いたくない、しかし社会貢献している感じは出したいから、記者会見をやったりハッシュタグを打ったりする。そういう人たちばっかりになっていて。これでは知というものは社会的に信用されなくなると思うんですね。
ぼくが辞めたあとのほうがウチの会社はぜんぜん利益が出るようになってるんですよ。これはたいへんなことで。ぼくはとにかくビビりましたよ、ぼくが辞めたあとの回復。
——きちんと経費削減して。
【東】そうそう! おまけに売上高も減ってない。おかしくない? 俺は何やってたの? 金をつかってただけ? そのとおりだっていう(笑)。
——本を出す度にデザインとか印刷に凝りまくってどんどん赤字になっていく流れとか、読んでてハラハラしましたよ。
【東】そうなんですよ。「金かかりすぎるからやめろ」って誰か言ってくれって。でも、それは俺が言えって話で。いまは言われる世界になった。
ときどき不動産調べると、いまマジ投げ売られてるんですよ、いろんなところの別荘とか旅館が。ゼロ円もあるの。そういうの発見するたびに、「おっとゼロ円!? これ俺が社長だったらいっちゃうなあ!」みたいなこと言ってるんだけど、でもそのたびに社長の上田(洋子)さんにたしなめられている。「雪が降ったらだれかが雪を下ろさなきゃいけない」「たしかにそうだ」みたいな。
——ダハハハハ! まだ現実を見ない部分があるんですね(笑)。
政治家もホントはそういうものだと思います。ビジョンって最初はわかってもらえないわけですよ。けれどもこいつはもしかしたらすごいじゃないか、という感じで金を集めて活動して、20年ぐらいたってから、「そういうことだったか!」となる。その時間稼ぎが人間力だと思うんですよね。
いまの世の中はそういう時間稼ぎをすごく軽視してて、「いま私はこういう政策を実現します」みたいになっている。そして「そうだ、みんなが求めてる!」「いや、それは求めてないぞ!」みたいな条件反射だけで、政治家も判断されるし言論人も判断されるしアーティストも判断されるようになっちゃってる。それをちょっと変えたい。時間稼ぎのための人間力。
——あとで伝わればいい。
【東】そう、あとで伝わればいい。その「あとで」が難しいんですよ、いまの時代は。いまこの瞬間ジャッジされちゃうから。
ぼくはぼくでいろいろ悩んでるわけですよ。悩んで何かを探しているわけです。それに対して、「いや、君はもっとここに力を注いだほうがいよ」とか言うのって、おまえの人生じゃないんだし、みたいなところがある。
もっとふつうに答えると、ぼくの哲学っていうのはゲンロンの実践というか、こういう人生とセットになってるし、ぼくがもしこういうことをやらないで執筆を続けていたら、それこそたぶんどっかの段階で全部飽きて、何もものを書かなくなったと思うんですよね。
SFってすごく変な世界で、ときどきSFブームってのが来るんですよね。それであいだに冬の時代がある。冬の時代は「SFって誰が読んでるの?」って状況になるんだけど、でもずっとコアな人たちは読み続けている。だからSF大会は世界のペースとは関係なく、我関せずのペースでやり続けてる。
SFの人たちは、世間の時間とはまったく関係なくSFだけの時間を持ってる。これ、けっこういいんじゃないかと思うんですよね。ときどきベストセラーが出たり世の中でブームが来たりするんだけど、関係なくSFのコアは守られている。文化って本来はこういうもので、アニメとかゲームだってそういう人がいっぱいいたから支えられてきたわけで。
ところがいまはどんなマイナーな監督やクリエーターに出会っても、すぐ検索してすぐ仲間が見つかり、「あれ、俺の感じた衝撃と違ったのかな?」と考えてすぐ軌道修正しちゃうわけですよ。でも、昔はそこで時間稼ぎができた。インターネットがなかったんで、ずっと自分なりに考えることができたわけですよね。「俺にとっての押井とはなんだろう?」みたいな。俺の押井論みたいな。
そういうのはたいがい勘違いなわけですが、でも、そういうことを考える時間が必要だと思うんですよね。そういう勘違いが多様性を作る。いまはそれがなくなっちゃって、そこは若い人たちは気の毒だなと思うんですよね。
ニコニコ大百科のありがたさみたいなものの、逆ベクトル 。
その子たちから見た世界はどう見えるんだろうって。そう考えたら、高齢者と大人だらけなんじゃないかと。自分たちの上に乗っかっている膨大な数の中高年がいて、若い人たちは少数派として生きていかなければならない。それは大変だなって思ったんです。
例えば社会人になって会社に入ったら、周りは中高年だらけ。そうすると頭数とか経験とか知識量とかでは勝てない部分が当然ある。声も大きいし数も多い、そんな大人たちを相手にまともに対峙したらペチャンコになっちゃうわけです。
だとしたら、そんな社会の中をうまくすり抜けながら生きていく方法はないか、となって、これは周りの大人たちを「操る」しかないんじゃないか――対立するのではなく、自分にいいように大人たちを動かして、すり抜けていくしかないんじゃないか、と。そうやって考えたとき、これはまさに、原作に描かれているアーヤだと。
ちょっとでも不快なことをされたり言われたりしても関係性をすべて否定し去ることができるなら、「自分はへっちゃら」です。
これを精神分析の用語で「躁的防衛」というのですが、これは「躁鬱」の躁です。一見「元気にふるまう」からこの名がついているのでしょうが、「防衛」であるからには「これで自分を守っている」のです。
「抑うつポジション」もフロイトの精神分析用語で、やや小難しいものの、私たちみんなよく知っているかなり苦渋に満ちた感覚です。夫婦や恋人と喧嘩別れしたあと、淋しくなるか、さびしさを紛らわさなければならなくなったとき、私たちはこれを自覚します。
「やがて攻撃性を向けた対象と以前には私に慰めと満足を与えてくれた対象が同一であったことに」気がつくわけです。
まず、「何かすること」を自分に設けたこと。仕事の量を激減していたときは、言葉通り何をしてもいいし、しなくてもいいのですが、そうした自由さは宇宙空間を漂う人間のようにひどく不安定な感覚をもたらします。その点、「毎日記録をつけること」は、その意義がどうであれ、自分に「やること」を課してくれます。
その「やること」は、しかし頭を使うものではありません。単純作業です。しかし、気温と日付は毎日同じではないので、単純作業とは言っても変化はあります。続けるのにちょうどよい按配の「複雑さ」でした。
とは言え、なんやかんやでそうした記録をとるのもやめてしまいました。不調の感覚が減り、元気の感覚が増してくるにつれ、そうした記録が価値あるものではなく、むしろ手間がかかるものだと認識するようになったのです。それはたぶん、三輪車に慣れた子どもが、いよいよ補助輪を取り外す準備ができたような感じなのでしょう。
⇒今はやめてしまっているとしても、恩義のあるものはある。