2020/09/21-2020/09/30
朝、仕事を始めるのはつらい
初心、「就職できたときの気持ち」とまでいかなくても、「先週、残業してでも仕上げてから帰りたかったのに、時間的限界で切り上げざるを得なかったときの気持ち」をせめて思い出して始められたらいいのにね。
組織に属さない自分幻想
就職活動をして、会社で仕事をし始めたころ、なんか外見で主張をしたくなった。髪を染めたり、あごひげを生やしたりしたくなった。
それは、オフィスラブ準備という期待もあったけど、それを含めてより大きく、「組織の任務」という大正義以外の個性を自分も持っているぞ、それを含めての俺個人を誰か見つけて、という欲望だったと思う。
しかし、多くの企業はサービサーとしての端正な外見を就業規則にするし、顧客のほうもそれを当然期待する。任務に忠実であって欲しいのであって、どんなサブ自我を持っているかな住んでいて落ち着くんて、お金を払う側になんてどうでもいい。
気持ちが押されているから
軽々(けいけい)に勝ちへ走るっ・・・!
勝ちを急がなきゃ勝てた・・・
ほんの2~3巡我慢すれば勝てたのに・・・
何を恐れているんだか・・・
魂にも脂肪が付くものだ、我々の魂にも。
…誰かが、ほんの少し優しければあの子たちはーーー
学校に通い、友達を作って、幸せに暮らしただろう。
でも、そうはならなかった。ならなかったんだよ、ロック。
だからーーーこの話はここでお終いなんだ。
「ずるい」「ひきょう」は敗者のたわごと
おれひとりじゃ完璧不利!ここは逃げて次の機会を待つぜ!
おれは誰かとコンビを組んではじめて実力を発揮するタイプだからな…
「一番よりNo,2!」 これがホル・ホースの人生哲学モンクあっか!
「思うに自動車という機械は便利なものだが誰も彼もが乗るから道路が混雑してしまう
接地圧が逃げるんなら、合わせりゃいいんだろ!逃げる圧力を想定し、摩擦係数は砂の粒状性をマイナス20に設定!
だがオレは負けないよ勝ち続けて敵だろうが世間の連中だろうが、まとめてオレの前にヒザまづかせてやるよ.
オレはアイツから学んだよ 全力を尽くす! ... 半殺しじゃ足りねえ 生き返る可能性がある
その方法によって山魚をトンネルの壁に
ぬいつけ列車からひきはがす。」
一般人達 「そんな方法があるんなら、なんでハナッからやらないんだ!!」
「もう、あんたの言うことなんか信じられないぞ!!」
凶羅
「あーあ、どいつもこいつもよ!!」
「だからおめーらは大嫌えなんだよ!」
「力もないくせに文句いう相手ばっかり探してやがる!!」
「そうやってピーピー騒いでいれば満足か?!ああ?!」
「泣いてりゃ誰か助けてくれんのかよ?!」
「いいか、”イグリ”はなァ、おめーらの体を通して
法力を高める大技よ。」
「どっちみちおめーらの腐った根性じゃできねえよ。」
「このままくたばるんだな。」
紫暮:「うむ。 ”イグリ”法は穿心角を持つものと、もう一人の
法力僧の間に多数の人間を必要とする。
手と手を握り、始めの法力僧の念を一人一人の
体の中を通してゆく。「念」は多くの人間の体を
通ることで、より強力なものとなり、最後の法力僧が
その念を込めて穿心角を発射するのだ。」
列車の車掌「それはあの普通の人でもできるんですか・・・?」
紫暮 「人間の体の内の力の共鳴を利用するので、
手を握り合うだけでいいのです。・・・・でも・・・」
列車の車掌「え?でも・・・とは?」
凶羅 「はっはっは、いってやれよ紫暮。」
紫暮 「念が体を通る時・・・鍛えられていない方は
かなりの苦痛を感じるでしょう。」
「念が体内を通る負担に耐えられず、
心臓や脳に機能障害を起す可能性も高いのです。」
「それに私が”念”を発する最初の者、その凶羅が
穿心角を発射する最後尾だとすれば、
凶羅に近くなるだけ、山魚にも近くなり危険も増すのです。」
凶羅 「くっくっく紫暮、やっぱりこいつらじゃダメなのよ。
クソどもだ。」
紫暮 「だが、これが本当の最後の手段なのだ・・・
やらねばみんな死ぬ。」
「どなたか私と凶羅の間に入って”念”を
通してくれる方はいないだろうか?」
「はは・・・始めて教壇に立った時みたいに
ふるえが止まらないんですよ・・・」
「でも・・・事故や災難というものは、
人の思うにまかせないものですが・・・」
「こんな――こんな恐ろしい時に自分がやれることがある。」
「ちょっとでも――抵抗できる・・なんて・・ふふ、
うれしいですよね・・・」
「生きてりゃさ・・・・・なんでこんな目にあうんだとか――
なんでオレばっかり――
とかいう目にゃ山ほど会うわなァ。事故とか病気とかな。」
「なんでかなァ? 現にさ今、
私らがこんな恐ろしい目に会ってるのに、
のほほんとメシ食ってる人間もいるんだよなァ。」
「不公平だよな。なんでだと思う?」
「わかんねえのさ。」
「いろんな不幸がなんで自分に起きるのか・・・
なーんて、先生にも私にも・・・
誰にもわからんのさ。」
「でも・・・抵抗するしかないもんなぁ。」
「そのなんだかわからんもんにスネてみても・・・
逃げてみても・・・仕方ねえもんなァ。」
「みんな、自分のため、
家族のため、抵抗すんだよなァ。」
紫暮 「なら、一緒に抵抗してくれる
自分っちゅうパートナーを
好きになってやらんとなァ。」
「そのカオは、自分がキライでキライで
しょうがねえってツラだなァ」
「野村くんよ・・・・トンネルってよ、
いやあな時みたいだなァ。」
「一人っきりで寒くてよ・・・・」
「・・・・・でもな、 いつかは抜けるんだぜ。」
配牌をとってくる時から 意志を自分の河に置く
たいていの人は外に意識が向いてしまう
あるいは誤った情報が入ってきて惑わされ乱れてくる
捨て牌だけに意識を置くと要らない情報が入ってこない
メールの最初の「お世話になっています」だけを書いておこうと、メールを「小分け」にしてみようと、大した効果はないでしょう。
問題なのは出すのが怖いということであって、少しずつ書いていっても出したくはならないし、ゲームがしたいわけでもないのです。
3時間をゲームに費やしたって、メールを出すのが本当に怖ければ、書いて送信する気にはなれないはずです。
何かしらの名前を与えて、イベントに仕立てあげてしまう。これも立派なマーケティングであろう。
ともかく、動機付けと告知効果を共に生むこと。そして、面白そうだと感じられること。それが大切である。
新しく入ってくるスタッフたちは、
「マリオらしいデザインをしました」って
自分で描いたキャラクターの絵を見せてくれるんですけど、
僕にとっては『マリオ』らしく見えなかったりするんです。
最近は絵を描く人の技術がどんどん上がっているので、
均一化現象のようなものが起こってる感じですね。
上手な絵というフォーマットがすでにできていて、
それにどんどん染まっていくような感じ。
お金に恵まれていると、こういう機会を失いやすくなります。
自分の書いたことをけなすかもしれない架空の人物に怯えれば、原稿をあきらめて、シューティングゲームにでも向かってしまいます。
仮にそのまま原稿を落としても、お金に困らないからいいわけです。
ObsidianとScrapboxではタイトルと本文の関係が逆のように感じているのですが、うまく言語化できるほど消化しきれていません。
⇒タイトルでは被リンク先しかリコメンドされないけど、本文ブラケットなら2hop先まで推薦される、そこの挙動かな?
「かなうとか、かなわないとかは、どうでもいいことじゃないかな」と感じた。
⇒いや〜、あるでしょ、人より秀でる必然性。そんで、世界の終わりにちゃんとシェルターに入れてもらわないと!(やままさん風)
というのは半分冗談だとしても、自分の作ったものを、自分で「これグレイト!」と思えないとしたら、それをやるのはやっぱり苦しいだろうな。絵を描くときとか。
自分のオカズを自分で作る的な水準の自分惚れ具合が必要だよね。
私な場合は、唯一、文章についてだけはそれが成立しているから、やってられる。
ホリエモン、以前は思想の違いはともかく賢い人だなとは思っていたのだが、収監されて出てきてからは随分ありきたりな放言キャラになってしまったなという印象。今は俺の中では老害界の若手みたいな位置付け。
ロシアが狙ったのは米国の「構造的脆弱性」だった。何のことかわかるだろうか?それは民主主義の根幹である言論の自由である。なるほど、言論が自由であるからこそ、外部からの操作が可能なのだ。
⇒自由や言論が脆弱性。
ちょうど食事中に「次は肉じゃがを食べよう」と思って、肉じゃがの入った小鉢に箸を伸ばすときに「さぁ、いまから箸を使うぞ」と道具である箸に意識を向けないのと同様です。
「メモしておかなきゃ!」という意志と「メモをする」という行為とが直結する感覚で、これを橋渡しするアプリは箸と同様に透明化するのです。
もともとラジオが好きなので、軽快なゲストトークだったり、リスナーからのパーソナリティいじりだったり、はたまた専門性や一貫性のある内容だったり、「こんな人気ポッドキャスト番組にしたい!」という理想は山ほどありました。
でもここにすがっている以上、理想と現実のギャップに苦しむことになります。
もちろんその悔しさをバネにして、本気で人気番組にするために努力する人たちもたくさんいますが、私にはそこまでのガッツがありませんでした。「しんどい想いをするくらいなら現状維持でいいや」という自分、これもまた「現実」です。
理想のポッドキャスト像を描けば描くほど、詰みます。続けたくなくなってしまいます。
私は、自分の想いを声で届けられるポッドキャストという発信手段が好きです。人気が出ないのも、儲からないのも不本意ですが(笑)、「ポッドキャストをとにかく続けること」が自分のなかでは最優先。だから理想を捨てようと思いました。
逆に、やろうとしているのは「絶対にやりたくないことをどんどん削ぎ落とすこと」です。
たとえばゲストの方にご出演いただくことがありますが、その方のためのお膳立てはしません(笑)。事前準備が負担だからです。ゲスト回だろうとなんだろうと、行きあたりばったりで! 質問事項を前もってもらっておかないと出演できないと言われた場合は「ご縁がなかった」と思えばいいのです。
★つまり自分は自分のことを過大に評価しないのに、相手はそうするとみんな思ってしまうわけです。そして、自分は他人に責任を押しつけないのに、相手はそうするとみんな思っているわけです。★
mindhacks.jp | Nov 30th -0001
が、他人は自分に比べると、自己中心的であることに比較的(自分と比較して)無自覚だと思える。「人は私ほど寛大じゃないからね。私は自分が自己中心的だって気づいているけど」と思ってしまう。これをナイーブ・シニシズムというわけです。
社会心理学の実験によると、実際にはそんなことはありません。つまり、こう思っていることすらお互い様なのです。
001 「みんなが自分のようなら世の中もっとうまくいくはず」と思ってしまう問題 – ライフハック心理学
昨日このようなことを書きましたが、ここで行われた「社会心理学の実験」というのは次のようなもの(和文)でした。
実験参加者たちは、2人が共同でポイントを稼ぐテレビゲームをさせられます。ゲーム後2人の「協力者」は、互いのゲームに対する「貢献度」と「ミスへの責任レベル」を評価し合うというものです。点数はいずれも100点満点。
もしも互いの「貢献度」や「責任」がきわめて妥当なものであれば、それぞれの評価を足した数字はいずれも「100」になるはずです。
たとえば私と妻が協力し合ってゲームしたとき、私が「自分は60点くらいゲームに貢献し、妻は40点くらいだろう」と思ったら「60」とします。そして妻もたしかにそう感じていれば「40」とするでしょう。足してちょうど100になります。
もし私も妻も自分のことを謙遜して評価していると、「私は40点で妻は60点くらいかな」と思い、妻もまた「自分は40点くらい」と思うことになります。この場合足しても80であり100に届きません。
このように、貢献度を足して100を割ったという組み合わせが多いとなると、人々の自己評価は「有意に低かった」と社会心理学的には言えることになります。
結果はどうだったかといえば、「貢献度」に関しては100をわずかに下回った程度で、きわめて100に近かったのです。つまり人々が協力した際、「自分がどのくらい貢献したか?」ということについての感覚は、主観的にも客観的にも妥当なレベルに落ち着くと、この実験からは言えそうです。
さて次は「責任度」です。この場合はミスに対する責任のレベルですから、お互いが「自分は悪くない」と思えば思うほど、100を下回ります。お互いが「自己責任レベル20点」と思えば、足して40点にしかならず、その分相手が悪いと思い合っていることになります。
実験の結果は、100点をだいぶ上回りました。つまりお互いが「自分の方がミスをした」と思い合ったということになります。ここまでは見知らぬ他人のことが好きになれそうな結果ですね。
さて、本当に面白いのはここからです。
今度は実験参加者に、「相手がするであろう自己評価」を推測しあってもらいました。方式はまったく同じく100点満点です。つまり自分の貢献度を自分で評価するのではなく、相手のする自己評価を推測し合うのです。
具体的に説明すれば簡単な話です。先ほどと同じくゲームをするのが私と妻だとします。ゲーム後、妻は自分の「ゲームへの貢献度を何点にするか?」と私が推測してみるわけです。
私としては「せいぜい50対50といったところ」と思っていたとしましょう。「しかし妻はちょっとうぬぼれていて私を低く見積もりそうだから、妻60で私40とするに違いない」などと推測します。そして妻もまったく同じように推測すると、両者の合計は100を超えてしまいます。
つまりこの場合に100点を超えるということは、「人は自分のことを過大評価しがちだ」と他人について推測してしまうという意味にになるのです。結果は実際その通りでした。推測した貢献度の評価は100を有意に超えたのです。
次は責任レベルですが、そろそろわかってきましたか? 実験の結果では100を大きく下回りました。私と妻の例をとれば、私は妻が私に責任を押しつけるに違いない、と推測したことになったわけです。
以上をグラフに示すと以下のようになります。
これはなかなか簡単な実験のわりに、興味深い結果をはじき出しています。自己評価と、相手の評価の推測では、貢献でも責任でも逆の結果になっています。
つまり自分は自分のことを過大に評価しないのに、相手はそうするとみんな思ってしまうわけです。そして、自分は他人に責任を押しつけないのに、相手はそうするとみんな思っているわけです。