2020/06/13-2020/06/20
リスクホメオスタシス
私のデジタル原体験
>本業と言えるものが徐々にシフト
で、例えばかなり詳細な収入ポートフォリオなんかが公開されていたことがあったけど、
動的な変化とか
その変化のときに、何を感じていたとか、それに対してどうしようと考えていたとか
そんなことも読んでみたいなんてことを思う。
成長を目的とする
効率化
善性
説教
自分が学んだこと
同じような悩みをたくさん見てきたこと
それは文化
なぜ数ある日常系のなかで「ごちうさ」が1位なのか
いっき日記という生き方
弱くしか言わないこと、片隅で言いたいこと
2020年の徒然草
手のひらの公共圏
ネームド
bcp
閉じ込められている状態
上記の「算段」は、当然本文ではない。強いて言えば「目論見書」だろうか。あるいは、(プログラムにおける)ドキュメントだろうか。あるいは、これこそがプログラムのコードで、生み出される実行結果が本文なの
⇒プログラムと、コメントアウトされた部分、という対比ではなく、実行結果が本文、というのは面白い指摘。
⇒微積分で考えたらどちらも同じことを言っているのだけど、人間の認識としては労力や技術の多寡による「主従」がどうしても生まれる。
ありのままの自分を受け入れるだけで、人はゆたかになれます。
こう書くとラクなことのように見えますが、情報が行き交い、人が他人に「善い」「悪い」のジャッジを下す日々のなか、ノイズに左右されることなく「そのままの自分」を見つめるのは至難のわざです。
引用しにくいけど、記事中段くらいにある、左右に対比させた書き出し表が、すごくよくできてる。
"後からそれが必要だったと判明することの心理的負担は計り知れない。" おそらくこのシミュレート(価値計算)が走るから、消すのが嫌になるのだろう。
⇒学習性無力感だけじゃなく、価値計算(未来予測)。だから、手軽に動かしたり戻したり、閉じたり、あるいはフォントを小さくしたり色を段階的に薄くしたり、徐々に認知へのアピールを弱くしていけたらいいことになる。 ⇒すると、単純なテキストエディタではできなくなる。
似たようなパターンで、「失敗しそうなこと」「怒られそうなこと」「後でノーマークだった手間(くさいパンドラ)を開けそうなこと」に手をつけるのはすごい労力がいる。
「見出しメモ」のリストは、それを見るたびに「俺たちを何とかしてくれ〜」と迫ってくるゾンビの群れのようなものです
⇒なんだ、みんなそうなのね(笑)
そのことを差し引いても、今時のテレビ番組のなかには「有名人や公共電波を使って『まとめサイト』をやっているとしかいいようのない」ものが見受けられ、これが本当にテレビの価値なのか、このまとめサイトっぽい番組をとおしてテレビメディアはいったい何をお茶の間(死語だ!)に届けようとしているのか、判断に迷うこともあったりする。
"いわゆる三密"を避けなければならない空気ができあがり、テレビ番組が今までどおりに収録しづらくなってしまったから、テレビは今まで以上にネットに頼るか、動画を作るようにテレビ番組を作らざるを得なくなっただろうからだ。
「キャラクターがおまえの行為を望むとか望まないとか、何を言っているんだ?」
という人もいるだろうし、それは理解しているつもりです。
でも人生を変えたキャラクターと会話できないなんて、逆におかしいと思わないか?
ネットの歴史クラスターさんらは塩野七生や司馬遼太郎を叩くのにご執心な人が目立つが、歴史を物語として提出され、味合うというのは、歴史というものの、基礎的な感覚である。そこから、歴史学的な像へと移っていけばいい。最初から歴史学というのはプロパー志向ではあるけど、教養の自然なあり方とは思えない。
⇒それでいいのか。そうか。
鍵アカさん
唐突に子供の服の整理をはじめてしまい、サイズアウトした服の山ができた。さて、まだ十分着られるけど、使用感はあるこの服の山(140男児物と120女児物)どうしよう。誰かに譲るにも、身内以外は声かけにくいしなー。メルカリ??でもほんと普通の服だしなー…。
⇒「まだ十分着られるけど、使用感はある」
世の中、こんな集合ばかりですよねー。