論理学と実世界の違い
人間は論理学的なルールを用いることがとても苦手である。特に、日常的な問題になってくるとその傾向は強くなる。なぜだろうか。その理由の一つとして、前提とする世界が全く異なっていることが挙げられる。
この問題を考えるのに、旧ソ連を代表する心理学者であったルリア( 59) がボルシェビキ革命のしばらく後に行った実地調査は、だいじなことを伝えてくれる。ルリアはヴィゴツキーという偉大な発達心理学者の薫陶を受けていた。ヴィゴツキーは言語の利用、特に読み書きを習得することが思考の質を変える、という主張を行った。ルリアは、本当にそれが成立するのかを農奴解放とともに公教育が始まった中央アジアに行って調べたのである。
いろいろな問題を用いて調査を行っているが、その一つには「綿は、暖かく乾燥した地域に育つ。イギリスは寒く湿気が多い。イギリスに綿は育つか?」というものがある。読み書きができない人(成人)は「わからない」と答えてしまう。一方、学校教育を受け読み書きができる人たちはすぐに「育たない」と答える。こうしたことから、ルリアはヴィゴツキーの理論の通りのことが起きている、読み書きの習得は思考の発達を促す、と考えた。 ここで考えたいのは、ヴィゴツキーやルリアが正しいかどうかではない。論理学が要請することがらである。この問題には、「綿は、暖かく乾燥した地域に育つ」、「イギリスは寒く湿気が多い」という二つの前提がある。さて、この前提は正しいのだろうか。綿は絶対に、暖かく乾燥した地域にしか育たないのだろうか、イギリスは本当に常にどの地域でも寒くて湿気が多いのだろうか。この真偽は、この問題を与えられた人にはわからないことがらである。わからないことがらからは結論を出さないのが賢明ではないだろうか。実際、この調査が行われた頃は、インドはイギリスの植民地であり、そこでは綿花は栽培されていた。
論理学は前提自体を疑うことは許されない。P→Qと言われればP→Qなのであり、「イギリスは寒い」と言われれば「イギリスは寒い」のである。一方、日常生活では確実な前提が得られることはほぼない。こうした世界では前提を疑ったり、棄却したりすることは、けなされるどころか、慎重な態度として尊重される。読み書きができない人が行った思考は、論理学の仮定する世界とは別の世界の中で行われたのである。思考をはたらかせる世界が全く異なるわけだから、別の考えが生み出されるのは当然と言えるだろう。
一方、学校に行くようになると、この推論が自然にできてしまう。これは論理的思考ができるようになったからなのだろうか。そうではないと思う。
小、中学校ではそもそも論理などは教えない。何を教えるかといえば、先生が言ったことは黙って聞く、疑わない、余計なことを考えない、そういうことである(これは隠れたカリキュラムと呼ばれる)。これは論理学の前提とする世界と一致する。 参考
(59), 『認識の史的発達』A.R.ルリヤ, 1974
出典