内言
ないげん
inner speech
大きな4つの特徴*1
1.基本的にダイアローグである
2.表現が圧縮される
時計のアラームが鳴っているとき「私は時計のタイマーをとめなきゃ」というよりも、「タイマー!」と言う。
3.他人の声が組み込みには限度がある
4.自分の行動を評価、または動機付けをする
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内言は自分との対話である
内言とは、内面化された(声に出されない、頭の中で展開される)言葉のことである。この内言によって、人間は前もって頭の中で必要な行為を計画し、その計画に従って自らの行動を調節する。この場合、言葉は内的な記号として思考を媒介しており、このように内言に媒介された思考のことを、言語的思考と呼んでいる。
内言の意味システム
特徴
意味は常にダイナミックで流動的な形成物
意味は同時に異なるいくつかの安定性を持つ
1.文脈が異なると容易に変化する、可動的な現象がある
2.意味は安定的で規格化された正確な領域がある
異なる文脈において語の意味がすべて変化しても、安定している不動不変な地点を意義とよぶ
語の意味が語の意義を優越している
語の意味は相互合同や相互結合をする
美の意味は作用として、意味論的単位の膠着をする
意味は内在的意味に該当すると思う。
意義=定義/意味=内在的意味
「語の意味が語の意義を優越している」の補足
織り込まれた文脈との関係で語の「意味」が決定されるものであるならば、語の「意味」は決して完全には知りえないものである。なぜならば、語はそれが位置する文脈が異なれば(文脈が変化すれば)、その「意味」を変えるからである。意義がその語との間に不変の固定された関係を持つとすれば、「意味」はその語との間に独立した関係、はるかに自由な関係を持っているのである。「この点で、語の『意味』は無尽蔵であり」語の意義を凌駕し、語の意義に優越しているのである。
言語学上の「意義」
(1)意味。わけ。言語学では、特に「意味」と区別して「一つの語が文脈を離れてもさし得る内容」の意に使うこともある。
(2)物事が他との連関において持つ価値・重要さ。「参加することに―がある」
広辞苑より
語をあらかじめ限定することはできない
もし、厳密な意味での語の意義が科学的な定義に限定されるとするならば、同時に、このことは、科学的な定義以外の語の内容は、その具体性や抽象性の水準はまちまちであっても、すべてしかるべき文脈の中で獲得された「意味」であることを物語っている。こうして、語の「意味」は文脈と共にあり、したがってその内容をあらかじめ限定できないのである。かくして、語の「意味」は無尽蔵であり、語の意義に優越しているのである。
内言の意味システムの特質
内言は凝縮された「意味」の塊
内言の述語主義
内言は自分との対話であるから、内言で陳述されている心理的状態や文脈はその主体には基本的にわかっている。したがって、他者に宛てた書き言葉や話し言葉では、その内容理解にとって多かれ少なかれ必要な主語や状況の説明後は、内言では不要であり、縮小されたり省略される。音声が消失し、構文も最低限に縮小・省略された内言では、統語論は問題にならず、意味論(意味システム)こそが最も中心的な位置を占めているのである。
Bさんが話し言葉で第三者に自分の悩みを伝える場合には、「私は職場のAさんが好きで、この胸の内を伝えたいが、もし思いが届かなかったらと思うとこわくて悩んでいるのだが、どうしたらよいか」と言わねばならないが、内言では、Bさんには自分の心理状態(意識の内容)はよくわかっているので、前段の説明部分は省略され、「・・・どうしたらよいか」という肝心の述語の部分だけが語られる。極端な場合には、述語に続く「ああっ!」という内的なため息が語られるだけでも十分なのである。ヴィゴーツキーは内言に見られるこの特徴のことを、内言の「述語主義」と呼んでいる。
Bさんの「どうしたらよいか」という短縮された内言の中には、Aさんの様々な属性や面影、AさんとBさんの職場での関係や出来事、Aさんに対する好きでたまらない思い、悩んでいる事実や悩みの内容、悩むことの苦しみ、思いが届かなかったらという不安、それでも思いを伝えたいという焦燥や葛藤、ためらい、どうしたらよいかという迷い・・・などといった知的および感情的なことがらすべてが、複合した内容となって詰め込まれているのである。「どうしたらよいか」という内言には、その言葉の文字どおりの意義以上の膨大な内容が含まれていることがわかる。
意義の「意味」化
内言の意味を構成しているこれらAさんをめぐる内容を分析してみると、一方で、そこには客観的事実に関わる安定した意義が存在している。たとえば、Aさんの属性(女性である、背が高い、髪が長い、メガネをかけているなど)、職場でのBさんとAさんの関係(たとえば、同じ課の上司と部下、一緒に仕事をする機会が多い、席が近いなど)などといった内容である。
しかし、同時に、Aさんをめぐる内容はそれにとどまらず、Bさんの意識の中では、Bさんの意識にのみ特有な、きわめて主観的な独自の「意味」を形成していて、内言はむしろこのような「意味」的な内容に満ちあふれている。たとえば、Aさんを好きであるとか悩んでいるといった主観的事実、高鳴る気持ち、思いを打ち明けたい焦燥感、しかし不安で怖い、苦しい、なんとかしたい、迷い、葛藤といった感情などである。
しかも、この例の場合には、Bさんの意識の中では、客観的で安定した意義でさえ純粋な意義としてはほとんど存在しえないのである。たとえば、「Aさんは同じ課の部下で、一緒に仕事をする機会が多い」といった客観的事実を反映した意義的な内容も、第三者にはまさにそれだけの意義にすぎないが、Aさんを好きでたまらないBさんの意識の中では、「背が高く髪の長いAさんは美しく、魅力的だ。メガネもよく似合っていて知的センスに溢れていて、心引かれる」とか「Aさんが部下で幸運だ。毎日の出勤で楽しいし、一緒に仕事をしていると幸せで、心がときめく」といった具合に、主観的に「意味」を付与され、もはや純粋な意義ではありえず、Bさんにのみ固有な「意味」的な内容に転換されているのである。
こうして、個人の意識という主観的な独自の文脈の中で展開される内言では、その内容は常に固有な「意味」を獲得しており、意義を利用がしているのである。さらには、そればかりか、意義をも含めた内言の内容全体が「意味」化されて、巨大な「意味」の塊を成しているのである。
意味論的単位の膠着と「意味」の作用
膠着とは
概念の複雑な意味や特殊な意味を表現するために、いくつかの語ないしは句が結合したり合同したりして、ひとつの複合語を作ることである。膠着により複合語が作られる場合、通常は、結合する語の主要な一部が採用され、他の部分は省略されたりする。また作られた複合語は、構造的にも機能的にも単一の語として現れる。
たとえば、原子力による発電システムやその推進政策が危険であることを訴え、その推進に反対し、別の安全なエネルギー利用の開発推進への転換を訴える思想や運動や状況を捉えるために、「脱原発」という複合語が作られたわけだが、これは「脱却(やめる、転換する)」という語と「原子力発電」という語の膠着と考えられる。この場合、脱原発という語は、ひとつの名詞として機能し、主語にも目的語にもなることができる。(たとえば「脱原発は正しい」、「脱原発を推進する」など)。
注目すべきことは、膠着による複合語は、その新しい語の意味として、新しい複雑な内容や特殊な内容を持つようになると同時に、結合された個々の語がもともと持っている内容もすべて保持しているということだ。語と語が結合することで、そこには、それぞれの語の意味を包含しつつ、それ以上の新しい意味が生まれるわけである。
意味論的単位の膠着
内言は構文が最大限に省略され、ほとんど述語だけで成立しているので、上述のような膠着が語や句を単位としてではなく、語の意味を単位として生ずるのである。内言に見られるこの特質のことを、ヴィゴーツキーは「意味論的単位の膠着」と呼んでいる。
意義と意義の結合と、「意味」と「意味」の結合とでは異なった面がある。前者の場合には、もともと規格化された安定した普遍の内容どうしの結合であるから、新しく生まれる複合的な意義も、たとえそれが個人の意識の中で「意味」化されたとしても、その自由度は限られたものである。それに対して、後者の場合には、文脈が異なると容易に変化する内容どうしの結合であるから、新しい複合的な「意味」も文脈と共に自由に変化するのである。
たとえば、脱原発という語の意義は、基本的に「原子力による発電システムやその推進に反対し、別の安全なエネルギー利用への転換を訴える」といった客観的なものであろうが、その「意味」の方は文脈によって多様に変化する。たとえば、原発推進の電力会社や建設会社の人たちにとっては「利益を妨げるいまわしいもの」、原発推進の科学者にとっては「無知な素人の迷い子と」、原発反対の猟師にとっては「海や自然を守ること』、賛成派であれ反対派であれ政治家にとっては「選挙の票争い」、などといった具合である。
「意味」の作用
『意味』は、語の意義の合同や結合の場合に観測されるものとは異なる相互合同や相互結合の法則を表す
内言では「意味」の作用という特別の相互合同と相互結合の法則により、「意味」と「意味」は相互に自由に合同・結合し、専攻および後続の語の「意味」(これら自身、それぞれの語の意義を凌駕する多様な「意味」を持っている)をお互いに取り込んで、ほとんど無限に拡大していくのである。こうして、内言は凝縮された「意味」の巨大な塊を構成していくわけである。
思想は全体的かつ同時的 思想と言語表現は一致しない
「思想は言葉のように個々の単語から成り立っているのではない。もし私が、私は今日青いジャンパーを着た男の子が裸足で通りを走っていくのを見た、という思想を伝えたいと思うとき、私は、男の子、ジャンパー、ジャンパーが青であること、男の子は裸足であること、その子は走っていることを、個々別々に見ているわけではない。私は、このすべてを思想の不可分な一幕として、同時に見ているのである。しかし、私は、言葉の上ではこれを個々の単語に分解する。思想は常に全体的な、個々の単語のをはるかに越えた広がりと容量を持つものなのである。雄弁家は、しばしばひとつの思想を数分間にわたって展開する。この思想は、彼の頭の中では全体として保持されているのであり、決して言葉が展開されるように逐次的に、個々の単位ごとに生ずるのではない。思想の中では同時的に存在しているものが、言葉の中では継次的に展開される。思想は、単語の雨を降らせる雨雲に喩えることができるだろう」
内言に媒介された意識の内容そのものが思想といえる。思想とは内言の「意味」である。
内言とイメージ
「空想のイメージこそは、私たちの感情の内言である」
私たちの感情は内的なイメージで表現される。
イメージは内言の構文にはなりえず、「意味」そのものである
空想とは内言の「意味」である。
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失語症で想像できなくなる
表現の揺れ
内語 内言語
出典
*1, 日経サイエンス201801
論文
McCarthy-Jones S, Fernyhough C(2011):The varieties of inner speech: links between quality of inner speech and psychopathological variables in a sample of young adults.
Simone Kühn, Charles Fernyhough, Benjamin Alderson-Day, Russell T. Hurlburt(2014):Inner experience in the scanner: can high fidelity apprehensions of inner experience be integrated with fMRI?
fMRIを用いた内言の調査。記述的経験サンプリング(DES)を用いて検証している。
Ben Alderson-Day, Susanne Weis, Simon McCarthy-Jones, Peter Moseley, David Smailes, Charles Fernyhough(2016):The brain's conversation with itself: neural substrates of dialogic inner speech.
Ben Alderson-Day, Marco Bernini, Charles Fernyhough(2017):Uncharted features and dynamics of reading: Voices, characters, and crossing of experiences
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孤独と共感 脳科学で知る心の世界
内言特集がある
内言は少女マンガではシャボン玉のような表現になるかもしれない