依存症(addiction)
「自分にとって害になるのに、本人の生態において欠かせないものとなり、自力でやめられなくなった体験に対する、過剰で機能不全な執着のこと」
1つは、人が依存症(addiction)というものを非常に狭い意味で理解していること。特殊な人間だけが抱える症状だと考え、該当者を「依存症患者」と呼ぼうとする。空き家にたむろするヘロイン中毒者。ニコチン漬けになったヘビースモーカー。処方医薬品を乱用する偽患者……。こんなふうにレッテルを貼って一般人と区別している。いつか依存症から脱することもあるのかもしれないが、少なくとも今のところ、彼らはそういうカテゴリーに属している人間なのだ、と。
だが真実は違う。依存症は主に環境と状況によって引き起こされるものだ。
行動嗜癖はどの程度まで一般化しているのだろう。入院したり、日常生活を送ることが難しくなったりするような、極端に害の大きい依存症は極めてまれで、発症するのは人口の数%程度だ。
だが、それほどではない軽度の行動嗜癖であれば、かなり一般的に広がっている。こうした依存症を抱えていると、生活の質が低下し、仕事や遊びで力を発揮できず、他人との交流も希薄になる。重度の依存症と比べれば心に与える傷は軽度だが、軽度な傷でも積み重なれば、しだいに人生の価値を著しく損なっていく。
行動嗜癖を抱える人の数を把握するのは難しい。ほとんどの患者はどこにも報告されないからだ。それでも多くの研究が把握を試みていて、特にイギリスの心理学教授マーク・グリフィスがもっとも包括的な調査を行った。グリフィスは20年以上も行動嗜癖の研究を続けている。論文を500本以上も発表してきた人物と聞いて、きっと誰もが思い浮かべるとおり、ひどく早口で熱のこもった喋り方をする。飛び級で進学し、23歳で博士号を取得。
行動嗜癖の専門家となったグリフィスは、その蔓延についてたびたび質問されるようになったが、はっきりした答えを提示することができずにいた。データがそろっていないのだ。そこで南カリフォルニア大学の研究者2人と合同で全体像の把握に乗り出すことにした。2011年に発表した長く詳細なレビュー論文では、まず先行研究を念入りに検査したうえで、数十本を選び、横断的に調査をしている。16歳から65歳まで、男女合わせて少なくとも500人以上の被験者を対象とし、慎重な調査を伴う信頼性の高い測定手法を使った先行研究だけを選んだ。
最終的にグリフィスらの研究は、先行研究83本、扱われている被験者は4大陸で合計150万人という、膨大な範囲を網羅するものとなった。アルコール、ニコチン、睡眠薬、その他の薬物といった物質への依存に加えて、ギャンブル、恋愛、セックス、買い物、インターネット、運動、仕事に対する依存症にも注目した。
グリフィスらの研究で導き出されたのは、全体のなんと41%が、過去1年間に少なくとも1つの行動に依存的に従事しているという事実だった。もはやマイナーな疾患とは言えない。論文では、人口の半分が次に述べる症状を経験していると説明している。
ある行動を止めるか続けるか、自由に選ぶ力を失い(コントロールの喪失)、その行動に関連した悪影響をこうむっている。別の言い方で言うと、その行動がいつ起きるのか、どれくらい続くのか、いつ止むのか、他にどんな行動が併発しているのか、自分で把握できなくなる。その結果として、他の活動を投げ出したり、続けていても以前のように楽しめなくなったりする。さらに好ましくない影響として、生活を支える役割(仕事、社会的活動、趣味など)がとどこおり、人間関係が阻害され、犯罪行為や法的問題を起こしたり、危険な状況に踏み込み、身体的なケガや障害、金銭的損失、心理的トラウマを生じさせる場合もある。
こうした依存症の一部はテクノロジーの発展と社会の変化によって広がった。最近の研究によると、最大40%の人が、メール、ゲーム、ポルノなど、ネットに関連した依存症のいずれかを抱えている*12。別の研究では、被験者となったアメリカの大学生のうち48%が「ネット中毒」で、残りの40%は境界線または危険性がある状態だった。被験者の大半は、ネットとのかかわりを尋ねる質問に対し、どちらかと言うと負の影響があると答えた。オンラインで過ごす時間が長すぎるせいで、仕事、人間関係、家族との生活に支障をきたしている、と。
依存症
2008年の集計では、成人が携帯電話を使う時間は1日平均18分だった*16。2015年には、これが2時間48分になっている。そう考えると、コンピューターのモバイル化は危険な傾向だ。つねに携帯しているということは、依存症の引き金をつねに持ち運んでいるのと変わらない。
また別の調査では回答者の60%が、テレビドラマを観るのを早めに切り上げようと思いながらも、気づいたら何話もぶっとおしで観てしまった経験があると答えた(これを「ビンジ・ウォッチング」と言う)。ソーシャルメディアの利用について調べた調査でも、59%近い回答者がSNSにのめりこんでいると回答し、自分にとって悪影響になっていると答えた。そうした人々の半数ほどが、少なくとも1時間に1回はSNSをチェックせずにいられない。最後にチェックしてから1時間経つと、不安になり、イライラして、物事に集中できなくなるのだ。
2015年に行われた調査では、2億8000万人がスマートフォン依存症であることが確認されている。仮に彼らが集まって「ノモフォビア合衆国」を結成するとしたら、中国、インド、アメリカに次いで、世界で4番目に人口の多い国ができる。
マイクロソフト(カナダ)は2000年に、平均的な人間の注意力持続時間は12秒というデータを発表している*17。2013年には、その数字が8秒になった(マイクロソフトによると、金魚の注意力持続時間は9秒なので、金魚より注意力がないことになる)。「人間の注意力は衰えている」というのがレポートの結論だ。18歳から24歳のうち77%が、暇さえあればとりあえず携帯電話に手を伸ばす。87%は、テレビドラマを何話も通して観つづけているうちに、意識が朦朧としてくることがよくあるという。
これだけでも心配になってくるが、さらに憂慮すべき傾向が、同じくマイクロソフトの実験から明らかになっている。2000人の若い成人被験者を対象に、コンピューター画面に出てくる一連の数字や文字に注意を集中させる実験をしたところ、結果ははっきりと分かれた。ソーシャルメディアで過ごす時間が長い被験者は、そうでない被験者に比べて、集中して課題をこなす能力が低くなっていたのだ。
「依存症」の語源とその歴史
依存症を指す「addiction」という言葉の語源を探ると、かつては、今言われているのとは異なるタイプの強い結びつきを指していたことがわかる*18。古代ローマでは「奴隷となる宣告を受ける」という意味だったのだ。人にお金を借りて返せなければ、裁判でこの言葉を言われる。借金を返し終わるまで、奴隷として働かなければならない、というわけだ。のちに言葉が進化して、虜になる、つまり断ち切りがたい熱中を指すようになった。ワインを飲むのが好きなら、「ワインの虜になっている」。本を読むのが好きなら、「本の虜になっている」。それは別に悪いことではなかったし、「虜になった」と言われる人の多くは、単に食べること、飲むこと、トランプで遊ぶこと、本を読むことが好きな一般人だった。さほど特別なニュアンスではなかったため、この言葉は数世紀を経るうちに希薄化していった。
1800年代になって、医療業界が、この言葉に新しい命を与えた。特に1800年代後半から医薬品としてのコカイン調合が研究されはじめ、使用した患者が薬から離れがたくなる傾向が強まってきたことから、医師たちは特別な注意を向けるようになった。当初、コカインは奇跡をなすものと見られていた。高齢者が何マイルも歩けたり、疲労困憊していても明晰な思考ができたりするからだ。しかし最終的には大半がその薬におぼれ、少なからぬ数がそのまま命を落としていく。
先にも述べたとおり、「addiction」という言葉はかつては単なる熱中を意味していたので、これが薬物やアルコールの乱用、今で言うところの「依存症」を指すようになったのは1800年代以降の2世紀でしかない。
だが実のところヒトという動物は、もっと大昔から特定の物質に依存する傾向があった。DNAを調べると、少なくとも4万年前の時点でネアンデルタール人がDRD4-7Rという遺伝子をもっていたことがわかる*19。DRD4-7Rはさまざまな行動にかかわる遺伝子で、これがあるためにネアンデルタール人は初期のヒトとは一線を画し、リスクを選んだり、新奇なものを探索したり、興奮するものを求めたりするようになった。先祖がおどおどとリスクを避けていた場面でも、ネアンデルタール人は貪欲に探求を続けた。このDRD4-7Rの変異であるDRD4-4Rという遺伝子は、現在でも人口の約10%に見られる。4-4Rをもつ人は、そうでない人と比べて大胆で無謀であることが圧倒的に多く、また一連の依存症を発症することが多い。
人類初の依存症患者を特定するのは不可能だが、調査結果を見る限り、1万3000年前にはもう存在していたらしい*20。その頃の世界は今とはまったく違っていた。ネアンデルタール人はとっくに絶滅しているが、地球はまだ至るところ氷河に覆われ、絶滅するまで2000年はある毛むくじゃらのマンモスもそんな未来など知らぬ顔で悠々と歩きまわり、ヒトはようやく羊、ブタ、ヤギ、牛などを家畜として飼育しはじめたばかり。農業が始まるのは数千年あとのことだが、この頃、東南アジアの島ティモールに住む誰かが、檳榔子に出合っている。
檳榔子ビンロウジ
檳榔子とは、檳榔ビンランというヤシ科の植物の種で、現在のタバコの古い未精製版といったところ。アレコリンという無臭の油分を含んでいて、これがニコチンのようなはたらきをする。噛んでいると血管が拡張し、呼吸がしやすくなり、血液の流れが速くなり、楽しい気分になってくる。檳榔子を噛むと頭が冴えると言われることが多く、南アジアと東南アジアの一部では現在でも人気のドラッグだ。
この檳榔子には厄介な副作用があった。頻繁に噛んでいると、歯が黒ずみ腐ってきて、やがて抜け落ちる場合もあるのだ。治療費のほうが高くつくというのに、歯を失ってもなお、檳榔子を噛むことをやめられない人が多い。2000年前の中国の皇帝がベトナムを訪ねたとき、なぜ歯が黒いのかと現地の人に尋ねたところ、こんな説明を受けたという逸話がある。
「檳榔子を噛むのは、口の中の衛生状態を清潔に保つためです。だから歯が黒くなります」
ロジックとしてまったく筋が通らない——身体の一部が漆黒に変わったら、健康になった証拠だと考えなければならないとは。
古代の依存症患者は東南アジアの人々だけではなかった。他の地域の原住民も、それぞれの自生植物にのめりこむ対象を見つけている。
たとえばアラビア半島と、アフリカの東北端のほうでは、数千年前からカートという木の葉を噛む習慣がある。カートは、「スピード」と呼ばれるドラッグ、化合物の名前で言えばメタンフェタミンと同じ作用をする刺激物だ。使用すると饒舌になり、陽気で興奮状態となって、やたら落ち着きなく動きたがる。そして、まるで濃いコーヒーを数杯あおったかのように心拍が上昇する。
同時期にオーストラリアの原住民アボリジニたちはピチュリという植物に、北米の人々はタバコという植物に出合った。ピチュリもタバコも、あぶって煙を吸うか、もしくは噛んで摂取する。そしてどちらも大量のニコチンを含んでいる。
一方で南米のアンデスでは7000年前に、大勢が集まる集会でコカの葉を噛むという風習が始まった。地球の裏側ではサマリア人たちがアヘンの調合に挑戦し、その効果をいたく気に入って、調合方法を粘土板に刻んでいる。
依存症のしくみ、はたらき、なりたち
脳は基本的に、快感を得られる出来事には何であれ同じように反応するのだから、ドーパミン放出と依存症がイコールであるとしたら、子どもは全員アイスクリームの依存症になるだろう(初めてアイスクリームを味わった幼児の脳で、ドーパミンの爆発が起きる様子を想像してみてほしい)。つまり、依存症になるかならないかを決めるにあたって、ドーパミン放出以外にも材料があると判断するのが妥当だ。
そのミッシングリンクの材料が、ドーパミンを放出するに至った状況である。何らかの物質や行動自体が人を依存させるのではなく、自分の心理的な苦痛をやわらげる手段としてそれを利用することを学んでしまったときに、人はそれに依存するのだ。たとえば不安や心配があったり、気分が落ち込んだりしているときに、ヘロインを摂取したり、過食したり、ギャンブルをしたりすればつらさがやわらぐことを学習する。寂しいときに、友達を作りやすい没入型のビデオゲームにのめりこめばいいと悟ってしまう。
依存症について執筆しているジャーナリストのマイア・サラヴィッツは、「人間には育児や愛情のためのシステムが備わっていて、そのシステムが、たとえ苦しい結果になろうとも人をがんばらせます」と説明している。
「これが依存症の受け皿です。正しく組み合わせないと依存症になります」
サラヴィッツの説明によると、このシステムは生存のための本能的な行動が組み合わさってできている。たとえば、育児に対する意欲や、恋人を求める欲求がそうだ。苦労や困難の前でも何とかしようする本能があるせいで、狂乱めいた行動やダメージをもたらす行動にも走ってしまう。
「医者が痛み止めを処方することで患者を〝依存症化する〟わけではありません。患者本人が、薬の摂取によって気持ちが安定することを繰り返しているうちに、薬なしでは生きられないかのように感じはじめます。(……)そうしたニーズも感じている状態で摂取を始めたり、いつもより多めに摂取したりすることで、依存症は始まるのです。心を落ち着かせるためにはその薬物が欠かせないのだ、と脳が学習することがなければ、依存症として根づくことはありません」
依存症は身体だけの反応ではない。重要なのは、その身体的な体験に自分が心理的にどう反応するかという点だ。サラヴィッツは、もっとも依存性が高い危険な非合法薬物であるヘロインを例に説明している。
「乱暴な言い方ですが、私があなたを誘拐して縛りつけ、ヘロインを2か月のあいだ注射しつづけたとしたら、ヘロインに対する身体的依存と離脱症状を作り出すことは可能です——でも、あなたが実際に常習者となるのは、解放されたあとに自分からヘロインを求め、使うようになった場合だけです。依存症は脳を『壊す』とか『ハイジャックする』とか『ダメージを与える』などと言われますが、そういうことではないのです。人は行動に対して依存症になり得ますし、愛にかかわる体験に対しても依存症になります。依存症とは、人物と体験との関係性のことなのです」
他人に薬物や行動を強要されるだけでは条件はそろわない。心理的苦痛を癒やすものとして確かに効果的だと当人が学んでしまうことも、条件の1つなのだ。
サラヴィッツの説明の中で、私がもっとも衝撃的に感じたのは、「依存症とは、ある意味で方向を間違えた愛情である」という部分だった。心理的な肯定ではなく強迫観念に促された愛、それが依存症なのだと。
行動と物質
1970年代の心理学者スタントン・ピールは、2005年の人類学者ヘレン・フィッシャーと同じく、愛と依存症を結びつけて考えていた*7。ピールによれば、方向を誤り、危険な対象に愛を向けたとき、その強迫的な執着は依存症となる。依存症とは非合法薬物だけの話ではないのだ。
それまでの数十年間は、「依存症は非合法薬物によるもの」というのが科学者の常識だった。ニコチンすら依存性物質と認めない科学者が多かった。喫煙は合法なので、それを構成する要素が依存性をもつことはありえない、という理屈である。「依存症」という言葉自体が避けられる傾向があり、極めて限られた範囲の物質だけを指して使われていた。だが、ピールはそんな常識に怯まなかった。ニコチンとヘロインを比べればヘロインのほうが短期間で明白な害をもたらすものの、心理的にすがるという意味で、ニコチンに対する喫煙者ののめりこみはヘロイン常習者のそれと同じだと指摘したのである。
ピールの見解は1970年代においては異端だったが、80年代から90年代にかけて、医学界のほうが追いついてきた。ピールは、有害なものにすがる行為は対象が何であれ依存症となりうると考えた。たとえば毎日のデスクワークに退屈している会社員が、現実世界で欠けているスリルを求めてギャンブルにすがり、ギャンブル依存症になる。
私は本書執筆のリサーチのためピールに連絡をしたのだが、行動嗜癖という言葉を出すと、彼は苛立ちを示した。「(取材に応じるのは)もちろんいいとも」と言ったので、私はそれを快諾と受け取ったのだが、そのあとに「ただし、私は人生で一度も『行動嗜癖』という言葉を使ったことはないがね」という台詞が続いたのである。
ピールに言わせれば、その言葉は妥当なものではない。行動への依存と物質への依存をはっきり区別しているような言葉だからだ。その2つを明確に分ける境界線は存在しない、と彼は考えている。依存症とはそもそも物質や行動についてうんぬんする問題ではなく、脳の反応のことでもない。ピールは依存症をこう定義している。
「自分にとって害になるのに、本人の生態において欠かせないものとなり、自力でやめられなくなった体験に対する、過剰で機能不全な執着のこと」
数十年前に定義を確立して以来、ピールは現在でも、依存症のことをこの説明に沿って理解している。ここで言う「体験」はあらゆるものを含んでいる——何らかの出来事に期待を抱くのも、針や焦げた匙やライターを綿密に並べるのも、そこに執着が生じるならば、依存症となりうる。薬物依存(というものがあるとして)の代表的要因であるヘロインも、小さな行動の連続を通じて身体に入ってきて、依存症を形成する。つまりヘロイン常習も、ある意味で行動の依存症であると考えるならば、薬物依存と区別して行動嗜癖という言葉を持ち出すのは意味がないとピールが主張するのも納得がいく。
彼は禁酒に反対し、アルコホーリクス・アノニマス〔アルコール依存症患者の自助グループ、略称AA〕の活動に反対し、依存症は病気ではないと論文で繰り返し主張している。病気ではなく、満たされていない欲求と、短期的にはそのニーズを満たしながらも長期的には害をもたらす一連の行動、その2つの結びつきなのだ——と。