モデルが理解にどう役立つか
以下の文を正確に記憶してみよう。
手順は全く簡単である。まずものをいくつかの山にまとめる。もちろん、量によっては一山でもよい。設備がその場にない場合は、次の段階としてどこか適当な場所に行くことになるが、そうでない場合は準備完了である。やりすぎないことが重要である。つまり、一度にあまり多くの量をこなすくらいなら、少なすぎる量をこなすほうがよいということである。短期的には、これは重要なことでもないように見えるかもしれないが、やっかいなことはすぐに起こる。これをミスると高くつくこともある。最初は手順全体が複雑なものに見えるだろう。しかし、すぐにそれは単なる生活の一側面にすぎなくなってしまうだろう。近い将来この仕事が必要でなくなるという見通しを立てることは難しい。誰にもわからないことである。手順が完了すると、またものをいくつかの山にまとめ上げ、それらを適切な場所に入れる。やがてそれらはもう一度使われ、このサイクル全体を繰り返さなければならなくなる。しかしこれは生活の一部なのである。
どうだろうか、あまり覚えられないと思う。全体は一五の文からなっているが、かなりラフに採点しても通常は四~七文程度しか思い出すことはできない。これはこの文章が何を言っているのかわからないからだろう。
ところが単語を一つ足すだけでこの文章はがらりと様相を変える。その単語とは「洗濯」である。これが文の最初にタイトルのような形で与えられる。すると思い出せる文の数は飛躍的に多くなる。この理由は、この話は洗濯の話だと思って読めば、すべての文が意味あるものとして理解できるからである。
先の洗濯に関する例文は、わざとこの外延的な次元の理解が難しくなるように作られている。「手順」、「もの」、「設備」などは、内包的な次元では全く問題なく理解できているが、外延的な次元、つまりそれが何を具体的に指し示すのかがわからない。だから結果として文章が表象する状況と等価な表象が頭の中に形成されない。よって理解できず、覚えることもできないということになる。
意味がわかるとか、理解するという言葉を用いたが、それはどういうことなのだろうか。私の中高時代、英語の先生は「単語の意味と文法がわかれば英文は必ずわかる(よって、この二つを勉強せよ)」とよく言っていた。例に挙げたのは日本語であるが、同じことが適用できるのだろうか。難しい単語はあっただろうか、また文法的にわからないことがあっただろうか。この本の読者にそう感じる人はいないはずである。単語も文法も完全に理解可能であるが、やはり文章全体として理解することはできない。つまり文の理解は単語と文法だけでは説明できないのだ。
文というものはある状況を表象しており、文の中で用いられる名詞は、その状況の中の特定の事物を表象している。読み手はこの表象関係を理解しなければならない。つまり、この文中の単語が特定の状況の中で何を指し示しているか、そして文全体としてはどのような状況を表象しているのかを理解するということである。言い方を換えれば、文が表象する状況と同じ状況を頭の中に表象するということである。
先の洗濯に関する例文は、わざとこの外延的な次元の理解が難しくなるように作られている。「手順」、「もの」、「設備」などは、内包的な次元では全く問題なく理解できているが、外延的な次元、つまりそれが何を具体的に指し示すのかがわからない。だから結果として文章が表象する状況と等価な表象が頭の中に形成されない。よって理解できず、覚えることもできないということになる。
この二つの表象が一致した時に、理解が成立するのである。ちなみに、文章理解研究において、以上で述べてきた状況の表象は状況モデルと呼ばれることがある。 出典