アレグザンダーが言語にもつ考え
誰もが建物の設計にランゲージを用いることができる。
まさに、英語という言葉と同じである。
私が英語を話す場合、口でしゃべりながら同時に頭の中に文章が自然に形成される。これはパタン・ランゲージにも当てはまる。
建物があたかも千年も昔から存在していたように感じさせる質、それをペン先からよどみなく流れ出た文章のように感じさせる質、これらは、自分の心を解放し、建物の生成をランゲージのなすがままにまかせれば、ほとんど自動的に生じるのである。
初めてこのような方法でパタン・ランゲージを用いた時のことを、私はまだよく覚えている。私はそのプロセスに心を奪われ、身震いするほどであった。ほんのわずかな簡単な声明によって、私の心は開かれ、よどみなく流れ出るのであった——だができた建物は、私がつくったもの、自分自身の感覚から生まれたものにもかかわらず、同時に、私の思考を経て、あたかも建物が自らの力と意思によって具現したかのようであった。
これは、水に飛び込む時のように身がすくむような体験である。しかも、きわめて刺激的である——つまり、自分ではとても制御できないことなのであ。人は単なる媒体にすぎず、そこでパタンに生命が吹き込まれ、ひとりでに新しい何かが生み出されるのである。
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ギャップ
鍛え上げられ、卓越した記号操作能力と、創作能力があるからこその言語感覚ではないのか?
そこらへんの人にとっては暴力的な、人の可能性への信頼。
村上春樹や宮崎駿級の作家性
教育や鍛錬なしにはたどり着けない地点。
実践者としての卓越性、教育者としての無自覚性
中間支援体、中間組織