体験期間
音楽界のスターの起源とも言えるビルトゥオーソ[優れた技術を持つ演奏家]が生まれ、作曲家たちはそのスキルに飛びつき、演奏家の力をさらに際立たせようと、入り組んだソロを書いた。ビルトゥオーソがソロを演奏して、オーケストラと呼応し合うように演奏される「協奏曲」も生まれ、アントニオ・ビバルディがその作曲家としては押しも押されもせぬ王者となった。ビバルディの「四季」は300年前の音楽ではあるが、現代でいうポップスのヒット曲のようなものだった(なお、「四季」とディズニー映画の「アナと雪の女王」の主題歌を組み合わせた演奏は、YouTubeの視聴回数が9000万回になっている)。
ビバルディのクリエイティビティーを刺激したのは、ある音楽家のグループだった。そのグループはヨーロッパじゅうの皇帝や王、王子、枢すう機き卿けい[ローマカトリック教会の教皇に次ぐ最高位の聖職者]、伯爵夫人らを魅了し、その時代としては最も革新的な音楽で楽しませた。グループは女性だけで構成され、「フィーリエ・デル・コーロ」として知られていた。「聖歌隊の娘たち」という意味だ。水上都市のベネチアでは、乗馬や野外スポーツなどはほとんどできず、市民の娯楽は音楽に集中した(注2)。バイオリンやフルートやホルンの音、歌声などが、すべてのはしけやゴンドラから聞こえ、夜に溶け込んでいった。音楽で賑わったこの時代のベネチアで、フィーリエは1世紀もの間、圧倒的な人気を博していた(注3)。ある著名な作家は、「この音楽の天才たちに会えるのは、ベネチアだけだ(注4)」と記した。
ジャン・ジャック・ルソーが1740年代にベネチアを訪問した時、アンナ・マリアはすでに中年となっていた。ルソーは反逆的な哲学者で、作曲家でもあり、のちにはフランス革命に影響を与えた。ルソーの言葉によると、「私はイタリア音楽には偏見のあるフランスから、その偏見とともにやってきた」。しかし、フィーリエ・デル・コーロが演奏した音楽は、「イタリアの音楽のようではなく、ほかの国の音楽とも異なっていた(注13)」
オスペダーレは作曲家にオリジナル曲の作成を依頼した。6年の間に、ビバルディはピエタの音楽家のためだけに140の協奏曲を書いた。ピエタ内での教育システムも進化し、年長のフィーリエが若いフィーリエを教え、若いフィーリエが初心者を教えた。演奏家たちは複数の仕事を持っており、アンナ・マリアは教師であり、筆耕者だった。それでも、彼女たちの中から次々とスターが生まれた。アンナ・マリアの後継者であるキアラ・デラ・ピエタは、ヨーロッパ全体で最も優れたバイオリニストとして称賛された。
ここで疑問が湧く。ピエタにはどんな魔法のトレーニングの仕組みがあったのか。孤児たちはベネチアの性産業で産み落とされ、施設に助けられなかったら、運河で命を落としていたかもしれない。その子どもたちが、どうやって世界初の国際的ロックスターのような存在になったのだろうか。
ピエタの音楽プログラムは、特別に厳しいものではなかった。ピエタの指導リストによると、公式のレッスンがある日は火曜と木曜と土曜で、個人練習は自由にできた。ただし、フィーリエ・デル・コーロの創成期には、多くの時間が仕事や日々の雑用などに充てられていたため、音楽の練習は1日に1時間しか認められていなかった。
最も驚かされるのは、彼女たちがいくつもの楽器を学んでいたことだ。18世紀のイギリスの作曲家で歴史家のチャールズ・バーニーは、オックスフォード大学で音楽の博士号を取得後、決定版となる音楽史を書こうと決め、オスペダーレも何度か訪問した。バーニーは旅行作家としても、優れた音楽学者としても有名になったが、ベネチアで見た光景には度肝を抜かれた。
ある時、オスペダーレを訪れると、演奏者との間にカーテンも何もない状態で、バーニーは2時間のプライベートな公演を聴くことができた。それについて、こう記している。「そのすばらしい公演は、聴くのはもちろん、見ていても好奇心のそそられるものだった。音楽のすべてが、バイオリンも、オーボエも、テノール、バス、チェンバロ、フレンチホルン、コントラバスさえも、女性によって奏でられていた」。さらに興味深かったのは、「その若い演者たちが、頻繁に楽器を交代していたことだ(注19)」
フィーリエのメンバーは、歌のレッスンを受け、施設にあるすべての楽器の演奏を学んだ。新しいスキルを学ぶと、賃金が支払われることも後押しとなった。マッダレーナという名前の演奏家は、結婚して施設を離れ、ロンドンからサンクトペテルブルクまでの公演ツアーに出た。マッダレーナはバイオリン、チェンバロ、チェロを演奏し、ソプラノ歌手としても活動した。マッダレーナ本人によると、「女性ができるとは考えられていないスキルを獲得し」、とても有名になったのでゴシップライターが個人的なことまで記事にしたという。
生涯施設で暮らした女性たちにとっては、複数の楽器を演奏できることは、実質的な意味で重要だった。ペレグリーナ・デラ・ピエタは、ぼろ布に巻かれて施設の引き出しに捨てられていた。バス歌手としてスタートし、バイオリンに移り、その後オーボエに変わった。この間、ずっと看護師の仕事もしていた。ビバルディがペレグリーナのための特別なオーボエパートを書いたほどの腕前だったが、60代になって、ペレグリーナの歯が突然抜け落ちた。そのためオーボエが吹けなくなったので、ペレグリーナはバイオリンに戻って70代まで演奏を続けた。
ピエタの演奏家たちは、その多彩な能力を誇った。あるフランス人の作家によると、彼女たちは「神聖なものから世俗的なものまで、あらゆるスタイルの音楽」の訓練を受けていたという。コンサートでは「歌と楽器をとても多様に組み合わせて」演奏していた。聴衆はみな、フィーリエがさまざまな楽器を演奏できることに注目した。休憩中に歌い手のビルトゥオーソが登場し、楽器で即興演奏をすることもあった。
フィーリエは、コンサートで演奏する楽器だけではなく、教育用や実験用の楽器も学んだ。チェンバロに似たスピネットという楽器、チェンバーオルガン、トロンバマリーナとして知られる巨大な弦楽器、木製のフルートのようであり、外側に皮が張られたツィンクという楽器。弦楽器のビオラダガンバ。これは、まっすぐ立ててチェロのように弓で演奏するが、チェロより弦の数が多く、形も少し違い、ギターのようなフレットがあった。
さらにフィーリエは、ただ演奏がうまいだけではなく、楽器の開発や改良にも多くの時間を使った。音楽学者のマルク・パンシェルルによると、フィーリエがさまざまなスキルを持ち、風変わりな楽器も多く集めていたため、「ビバルディは、無尽蔵の材料がある音楽実験室を自由に使える」状態だった。
フィーリエが学んだ楽器の中には、それが何なのか誰も知らない、謎めいたものもあった。プルデンツァという若いメンバーは、バイオリンや「ビオロンチェロ・アッリングレーゼ」という楽器の奏でる音楽に乗せて美しく歌った。音楽学者はその楽器が何なのか議論してきたが、いずれにせよフィーリエは、他のさまざまな楽器、たとえばシャリュモー(管楽器)やプサルテリー(弦楽器)といった珍しい楽器と同様に、ビオロンチェロ・アッリングレーゼの演奏方法も身につけていった。
フィーリエは作曲家たちを、未知の高みへと導いた。バロックの作曲家から、バッハやハイドン、モーツァルトといったクラシックの巨匠へと、音楽を橋渡しするのにも貢献した。バッハはビバルディの協奏曲を編曲し、ハイドンはフィーリエの一人で、歌手でハープ、オルガン奏者のビアンチェッタのために曲を書いた。モーツァルトは子どもの頃にオスペダーレを父親と一緒に訪れ、10代になって再訪した。
フィーリエがさまざまな楽器を演奏できるので、作曲家は音楽を深く実験でき、それが今日のオーケストラの基礎になったとも言われている。音楽学者のデニス・アーノルドによると、フィーリエを通じて起きた教会音楽の近代化は非常に影響力があり、モーツァルトの代表的な宗教曲の一つは、このベネチアの孤児院の少女たちの力がなかったら、「全く作曲されていなかったかもしれない(注24)」
しかし、フィーリエの音楽教育戦略は、現代の親にはなかなか受け入れられないだろう。一人が多くの楽器を学ぶアプローチは、今日のスキル向上のための一般的な説と正反対だ。意識的な練習のフレームワークにも、もちろん当てはまらない。意識的練習では、伸ばそうとするスキルに極度にフォーカスした練習が重視される。その立場からすると、多楽器のアプローチは単に時間のムダだ。
親たちは、オンライン・フォーラムに集っては、子どもにどの楽器をやらせるべきかと悩みを語る。子どもはまだ幼くて自分で楽器を選べないが、自分で決められるようになるまで待っていたら後れを取って、取り返しがつかなくなると心配する。2歳半の男の子を持つ親は、「子どもに少しずつ言い聞かせて、音楽を演奏するのはとっても素敵なことだと思わせるようにしています」と投稿する。別の親は「どの楽器が一番いいのか、本当にわからない」と書く。また別の人物は、「7歳なら、バイオリンはやめたほうがいい」とアドバイスする。もっと早く習い始めた他の子どもたちとの差は埋めがたいというわけだ。ある民間の音楽教室はこうした心配に答えて、まだ幼くて、好きな色すら毎週変わるような子どものために「楽器を選ぶコツ」をアドバイスしている。
もちろん、専門能力を築く道筋はいくつもある。傑出した音楽家の中には、とても幼い頃に楽器を絞った人もいる。世界的チェリストのヨーヨー・マがそうであることは有名だ。ただ、あまり知られていないのは、ヨーヨー・マがバイオリンから始め、ピアノに移り、それからチェロを始めたことだ。バイオリンとピアノは、あまり好きではなかったという(注30)。ヨーヨー・マは一般的な生徒よりも、ずっと早く「体験期間」を過ごしていた。
ジョン・スロボダは音楽心理学の代表的な研究者の一人だ。スロボダの1985年の著書『ミュージカル・マインド(The Musical Mind)』は、音楽の起源から演奏スキルの獲得までを取り上げ、今後研究されるべきテーマも挙げている。研究者たちは今もそれらのテーマに取り組んでいる。1990年代を通じて、スロボダは仲間の研究者とともに、音楽能力をどう成長させるかについて研究した。当然、音楽家の成長において練習はとても重要だが、詳しく調べると意外な点が見えてきた。
8歳から18歳までの初心者から難関の音楽学校に通う生徒まで、さまざまな音楽レベルの生徒を調べたところ、非常に上達した人でもそうでもない人でも、音楽を始めた頃の練習量に大差はなかった。上達した生徒たちの練習量が他の生徒よりも大きく増え始めるのは、自分がフォーカスしたい楽器がわかってからだ。その楽器が他の楽器よりもうまく演奏できたり、好きだったりしたために、その楽器を選んでいる。選んだ楽器が生徒たちのモチベーションになっているようだった。
200人の若い音楽家を調べた別の研究では、音楽をやめてしまった人たちは「自分がやりたかった楽器と、実際にやることになった楽器が違っていた」と訴えている。タイガー・マザーのエイミー・チュアは、娘のルルが「生まれつきの音楽家」だったと言う。チュアの友人の歌手も、ルルを「誰も教えられない」ような才能を持った「類い稀な」子どもだと言った。ルルはバイオリンがどんどんうまくなったが、やがて母親に不吉な予言のように「お母さんがバイオリンを選んだ。私じゃないわ」と言うようになった。13歳で、ルルはバイオリンをほとんどやめてしまった。チュアは著書の最後の部分で、率直に自分を省みて、ルルに何の楽器をやるか自分で選ばせていたら、まだ音楽を続けていただろうか、と書いている。
スロボダたちは、イギリスのある寄宿音楽学校も調査した。その学校には、国中から生徒が集まっており、入学は完全にオーディションによって決められる。スロボダらが驚いたのは、学校で最優秀と認められている生徒たちは、それよりも成績が低い生徒たちに比べると、音楽にそれほど熱心でない家庭の子どもが多く、楽器を始めた年齢も低いわけではなく、とても幼い頃には家に楽器がなかった家庭も多かったことだ。また、その学校に入る前に受けたレッスン数も、成績が下の生徒よりも少なく、全体的な練習量は圧倒的に少なかった。
「正味の練習量や練習時間が、優秀さを示す適切なバロメーターにならないことは、非常にはっきりとしている」とスロボダらは述べる。また、正式なレッスンを、早期に長時間受けていた生徒たちは、全員が「平均的」な評価レベルに留まり、「最優秀」のグループには入っていなかった。「ここから考えられるのは、幼い頃にあまりに多くのレッスンを受けても、効果はないかもしれないということだ」
一方で、スロボダたちはこうも記す。「しかし、異なる楽器の練習をすることは重要なようだ。学校が『最優秀』と認めた子どもたちは、三つの楽器に比較的均一に取り組んでいた」。それよりスキルの低い子どもたちは、まるでヘッドスタートによる優位を守ろうとするかのように、一つ目の楽器に時間を費やす傾向があった。最優秀の生徒たちは、いわばフィーリエ・デル・コーロのように成長した。「三つの楽器にほどよく取り組んだことが、大きな効果をもたらした」と、スロボダらは結論づけた。
この研究では、最優秀に至るまでには、多様なルートがあることが示された。だが、その中でも共通していたのが体験期間だった。さまざまな楽器や活動を経験し、あまり厳しくないレッスンをある程度受け、そのあとになってようやく焦点を絞って、より厳しいレッスンを受けて練習量を激増させる。このパターンに聞き覚えがないだろうか。
スロボダの研究から20年後、ある研究では難関の音楽学校に入学を認められた若い音楽家と、同様に熱心に音楽に取り組んではいるがスキルの劣る学生とを比較した。その結果、よりスキルの高い学生はそうでない学生と比べて、少なくとも三つの楽器を演奏する割合がはるかに高かった。また、半分以上が四つか五つの楽器を操った。
クラシック音楽の演奏は、ヘッドスタート信仰が最も盛んなところだ。というのも、音楽の習得はある意味でゴルフのようなものだからだ。つまり、設計図があり、ミスはすぐにわかって、練習では同じことを何度も繰り返して、自動的に体が動いて変動が最小限になるまで取り組む。ではなぜ、できるだけ早く楽器を決めて、技術的な訓練を始めることが、成功への標準ルートとならないのだろうか。クラシック音楽でさえも、シンプルなタイガー方式には当てはまらない。