巧さを軽視するなかれ
本人もやったことないことをやっているわけだから、一番興奮するじゃん
既にやったことのあることをもう1回やっても興奮しない
だから、何かを上手につくることに興味がないんですよ
それは工芸になっちゃうでしょ
きれいなお茶碗作るとか、きれいな自動車塗装するとか、そういう話になっちゃうわけで
「上手くつくる」、ぼくは好きです
工芸的な巧さと、コンセプチュアル・アートの作家が立ち回りとして見せた「巧さ」を峻別する意味って何なのか
Wall Paintingは確かに工芸的な意味での「巧さ」とは異なるが、あの時代、ああいうスタンスを打ち出した、その立ち回りに「巧さ」がある
その意味では、コンセプチュアル・アートという概念が確立し、美術界にその居場所を認められて以後に、そういうコンセプチュアリズムをトレースしている人には、そうした第一人者としての「巧さ」はおはや無い。あくまでコンセプチュアル・アートという様式の中で精度追求をしているだけ
類似例: {パンク,ロック}は死んだ
とはいえ前提の中で精度を高めていく「巧さ」と、前提そのものを切り崩していく「巧さ」にはやはり隔たりがある
ただ少なくとも、現代美術の視点から工芸的な巧さを軽蔑するアーティストの殆どは、現代美術、コンセプチュアリズムという様式を透明化した上で(それは「自らの様式を疑う」という態度もまたある種の様式なわけで)精度追求する職人なんですよね
横トリはそういう意味で会場全体が均質化していた
意味論的、コンセプチュアルな側面に注目しすぎて、そのシンタクティックな装いに興味が向かなくなることのつまらなさ
CCBT連続講義のフォントが「游明朝体36ポかな」で良いのか?
永原康史さん装丁のあの本からタグクラウドというあの見せ方は変わってない
賢そう
そうした佇まいへの軽視が、「興味をもつべくして興味を持つ人たちの中でぐるぐると回り続ける」タコツボ化を招くのでは
けどそうした問題意識は「コンセプトは大事だけど・大事じゃない」として、彼自身も自覚している気がする
芸術 > 工芸 > 手芸 という価値の序列
『現代手芸考』
手で考える; 脳で考える人は、脳の一部しか使っていない
いろんなことばがあるよね
手技
技芸
技工
てつき