自分の「古典」を持とう
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古典
なぜ古典を読むか
自分を信用しない
『日本哲学小史 熊野純彦』を読んで「へえ」と思ったのだけど、西田幾多郎門下の「自分の頭で考える」哲学者が戦時中におかしな方向へ行ってしまったのに対し、ソクラテス・プラトンの解釈という立場を崩さなかった田中美知太郎だけが戦時中も冷静な態度を保ったというのは、いろいろ示唆的だなと思う.自分にとっての「古典」をもつメリットがあるとすれば、自分の頭で考えることを過信しなくなることなのだろう。
@tukinoha2 January 9, 2021
時の試練を信じるということ
ゲーテ「生まれが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要は無い。何世紀も普遍の価値、普遍の名声を保ってきた作品を持つ、過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。」
時間というランダム性のふるい
生存に役立つものが合理
大事なのは、古代の人々の本がいまだに出回っていて、リンディ女史によってふるい分けられてきたという点だけではない。古代の人々の本を読んだ人々が生き残ってきたという事実もまた重要なのだ。
身銭を切れ ナシーム・ニコラス・タレブ
古典の読み方
別の時間軸を持つ
具体的なブックリスト
古代の人々には、私たちが知るような物理学の知識はなかったが、人間性に関する知識はあった。したがって、社会科学や心理学の世界で成り立つことは、すべて耐リンディであるはずだ。つまり、古典に前例があることになる。でなければ、その結果を再現したり、実験環境以外へと一般化したりすることはできないだろう。
ここでいう古典とは、キケロ、セネカ、マルクス・アウレリウス、エピクテトス、ルキアノスなどのラテン語(および後期ヘレニズム時代)の道徳文学(当時の道徳哲学は今日とは違うものを意味していた)、ユウェナリスやホラティウスなどの詩人、またはラ・ロシュフコー、ヴォーヴナルグ、ラ・ブリュイエール、シャンフォールなどの後世のフランス人”モラリスト”を意味する。
ボシュエはそれ自体がひとつの分類だ。モンテーニュやデジデリウス・エラスムスは古典への取っかかりとして申し分ないだろう。モンテーニュは大衆化の能力に長けていたし、エラスムスは緻密な編纂者だった。
身銭を切れ ナシーム・ニコラス・タレブ
だいたい週に3〜8時間は本を読んだ。ドストエフスキー、ツルゲーネフ、チェーホフ、ボシュエ、スタンダール、ダンテ、プルースト、ボルヘス、カルヴィーノ、セリーヌ、シュルツ、ツヴァイク(好きじゃなかった)、ヘンリー・ミラー、マックス・ブロート、フランツ・カフカ、イヨネスコ、シュルレアリスム作家、フォークナー、マルロー(ほかにコンラッドやメルヴィルといった冒険家の本も好きだ。私が初めて英語で読んだ本は「白鯨」だった)や、似たような文学作家たち(その多くが無名だ)。
それから、ヘーゲル、ショーペンハウアー、フリードリヒ・ニーチェ、カール・マルクス、ヤスパース、フッサール、レヴィ=ストロース、レヴィナス、ショーレムなど、哲学の作家も。彼らには、学校で教えられていないという何よりの価値がある。
学校で教えられているものはいっさい読まない。なので、ラシーヌやコルネイユみたいな退屈な本はいまだに読んだことない。 
反脆弱性 Antifragile ナシーム・ニコラス・タレブ
まあタレブの選書はただイキってる可能性のもあると思うので、あまり気にする必要はなしggkkiwat.icon
いま「若者に本を勧めるとしたらどんな本を選ぶか」とのご質問ですが、そうですね、いまならばもっと古典を選ぶでしょうね。
プラトンに始まり、ルソー、カント、ドストエフスキー、アンドレ・ジッド、ハイデガー、カミュ、レヴィ=ストロース、ぼくはそういった古典にもけっこう影響を受けてきました。
近代日本ならば、たとえば夏目漱石とか柳田国男とか丸山真男とかでしょうか。(東浩紀)
【#ゲンロン友の声】若者に本を勧めるならどんな本を選びますか?|ゲンロンα
中央公論社「世界の名著」一覧リスト
人類の知的遺産シリーズ瀧本哲史.icon
西田幾多郎の哲学概論nishio.icon
ネタにマジレスすると最初の一冊として「海外の専門家がその専門分野に対して斬新な概念を提案しようとして書いた本の翻訳本」を勧めるのはニーズに合わないのではないか。日本人の哲学者が大学の学部生向けに行った講義録、西田幾多郎の哲学概論がPDFで公開されている: https://docs.wixstatic.com/ugd/13f9b5_11f001f849b343559142c849647cfd1f.pdf
@nishio Sep 7, 2019