自分の「古典」を持とう
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なぜ古典を読むか
『日本哲学小史 熊野純彦』を読んで「へえ」と思ったのだけど、西田幾多郎門下の「自分の頭で考える」哲学者が戦時中におかしな方向へ行ってしまったのに対し、ソクラテス・プラトンの解釈という立場を崩さなかった田中美知太郎だけが戦時中も冷静な態度を保ったというのは、いろいろ示唆的だなと思う.自分にとっての「古典」をもつメリットがあるとすれば、自分の頭で考えることを過信しなくなることなのだろう。 ゲーテ「生まれが同時代、仕事が同業、といった身近な人から学ぶ必要は無い。何世紀も普遍の価値、普遍の名声を保ってきた作品を持つ、過去の偉大な人物にこそ学ぶことだ。」 大事なのは、古代の人々の本がいまだに出回っていて、リンディ女史によってふるい分けられてきたという点だけではない。古代の人々の本を読んだ人々が生き残ってきたという事実もまた重要なのだ。
古代の人々には、私たちが知るような物理学の知識はなかったが、人間性に関する知識はあった。したがって、社会科学や心理学の世界で成り立つことは、すべて耐リンディであるはずだ。つまり、古典に前例があることになる。でなければ、その結果を再現したり、実験環境以外へと一般化したりすることはできないだろう。
学校で教えられているものはいっさい読まない。なので、ラシーヌやコルネイユみたいな退屈な本はいまだに読んだことない。 まあタレブの選書はただイキってる可能性のもあると思うので、あまり気にする必要はなしggkkiwat.icon
いま「若者に本を勧めるとしたらどんな本を選ぶか」とのご質問ですが、そうですね、いまならばもっと古典を選ぶでしょうね。