「意志」「責任」概念によって社会秩序を保つ
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社会では「行為の出発点は意志」
人間の社会では、「意思」を出発点にして考える。人間の意思の前には因果関係を遡らない。 カントの「自由意志」は”自由な意志”ということではなく、「意志する状態が妨げられていない」という意味。 人は自発的な意思によって社会を作るが、その社会が人の意思を作る。正のループ そもそも「意志」などというものが存在することは信仰でしかない。あらゆる文化資本や慣性、環境変化や生理的反応によって生じる瞬間瞬間の行動に対して、それが「その人のもの」であるということは不可能であるからだ。しかし、「意志」は便利である。ある行為や現象を属人化することで、「責任」を問うことができるからである。責任を問うべきケースで、そこに生じた行為を後からある人の所有物にする。このような歪な詭弁によって、社会秩序を保つための道具が出来上がる。 責任という概念はなぜ生まれたのか?シンプルです。怒り狂っている人をなだめるためには、スケープゴートを見つけて血祭りに上げる、つまり誰かが「責任」を背負わなければならないからです。そうすることで「終わりにする」ことができるんです。一種の社会的発明ですね。 人間が自由意志と責任能力を持つ理性的な主体とされることによって、道徳は人間の内心の問題であることになっていくだろう。社会のルールとは別に内心のモラルが、現実の法廷とは別に心の中の良心の法廷が、つくられるだろう。(p99)