リスペクトという単語は解像度が低い
#インターネット や #仕事 で何かしらの衝突が起きたとき、その場の関係を適当におさめるときの言葉として「リスペクトが大事」というフレーズが使われる しかしこういうケースの「リスペクト」の使い方は粗雑な物が多い
言ってる本人も何言ってるかわかってないんじゃないかという気持ちにさせられることが多い
「ケースバイケース(これも下らない言葉だ)」なのはその通りだが、どういうケースに使えるのかがわからない人にはケースバイケースの判断もできそうにない
ここでは上述のシチュエーションにおける「リスペクト」が何であって何でないかを分解する
前提としてリスペクトは他者(others)に向けるものである
自尊(self-esteem)という感情はあるが、これは言ってみれば例え話みたいな単語であり、ここでいうリスペクトと同質ではない
そもそもesteemは承認であり、respectとは異なる概念だ
他者性への配慮、がリスペクトの要件の一つである
人間が他人に親切にするとき、必ずしも他者性への配慮がはたらいているとは限らない
相手のことは特に考えてないが、何となく自分がされて不快にならない行動をとってるだけという状況はよくある
これは「無害ではあるが、リスペクトは特にない状況」と定義できる
原理的には、相手のことをまったく知らなくともこういう行動はとれる
無害性(harmlessness)とリスペクト(respectfulness)は異なる
無害性を担保するにはコミュニケーションは必要ない
究極的には人間でなくてもできる
炎上した文章に対して「リスペクトが足りない」と言ってる人をよく見ると、単に無害性を要求してるに過ぎないというケースがよくある
そうではなくリスペクトを要求したいなら、「相手への理解が浅い人間はいくら行動が親切でも無意味」ぐらいのことを言うべきなのだ(と思う)
「リスペクトを持って攻撃する」のが可能であるということは、つまり「理解が深いことは行動が親切であることよりも重要」ということである。
ただしそれがわからない人にはせめて無害でいてもらうしかないので、次善の策として無害性を要求することはありうる(政治的!)
他者は必ずしも共時的な他者とは限らない
過去の人間や、あるいは過去の自分すらも広義の他者と考えることができる
忘れてしまうほど昔に自分が行った行動に対し、本人がそれに他人事のような尊敬を抱く状況はありうる
道徳には「意志の問題」と「理解力の問題」がある
リスペクトという行為は意志に還元できない面が多くある