読まれないように書く
普通は文章って、読んでもらいたいから書くのだろうけど、そういうものを書く、書きたい場合もあるけれど、読んでもらいたいとなると「そっち」に最適化しないといけないし、最適化を意識してしまう。岩下啓亮さんの次の投稿はとてもわかりやすい。
だけど、長々と書いたとて、いったい何人が読んでくれるだろう。正直なところ、ツイッターで長文を読むかというと、それほど読まないんだ。最近だと小西洋之のとか尾形聡彦のとかは、問題を理解するために読んだけど。「もっと読む」をクリックすること自体あまりない。スレッドは割と読むんだけどね。
私の最近のテーマは、「人はどうして〈設定〉に自分を合わせようとするのか」だけど、文章を圧縮して、140文字に言いたいことを要約するのもまた、最適化の一種だと思う。いつのまにか思考がツイッターサイズになっている。私はそれに抗うどころか、積極的に合わせている。ホラもうすぐ残り0文字だ。
こういう考えは全然アリっていうか、いいよね。スタイルだから。やりたいこととスタイルがあってればそれでいいし、同意しかない。自分もTwitterで長文流れてきても読まない(読まないんかい)。じゃあ、それなのになんで自分は〈設定〉からわざわざ離れるようなことをしているかというと、なんだか今はそういうことがやりたくなったからってだけでしかない。
あえて言えば読まれないように書くことで、読まなくてもいい人に読まれないようにするというか。だってさ、読んでもらいたい人にできるだけたくさん読まれるようにしたいのはわかるけど、SNSって同時に、読んでほしくない人、読めない人にも読まれてしまうじゃん。なんだよ、読めない人に読まれる って。
読まれた人数だとかビュー数だとか、数値にすべてが還元されることが当然になって、みんな当たり前のようにそれを納得して受け入れているけれど、数読まれたらえらいのかって話でしょ。なんかそれがつまんない、飽きたという感じ。別に数字はとろうと思ったら、誰だって似たような方程式でハックして取れるんだからさ。それをやるかどうかってだけの話でしょ。くだらない。
ここで岩下さんがおっしゃっている「〈設定〉に合わせる」というのは、単純な数や反響のことじゃなくて、スタイルに合わせることの楽しさだよね。とにかく140字で書いてというルールがあって、それを守って自分が「書きたい」ことを「書きたいように」書くってことで。だから「数字を取る」ためにやってることじゃなくて、どちらかというと俳句は575で季語入れなきゃダメとか、そういう制約の中じゃないと生まれない自由を楽しんでるとかそういうことじゃないかと思うんだけど、自分が抗いたいのは、その部分の美意識をぶっとばして、単純な数字の最適化だけに意識がいってしまう状態や制度なんだよね。
細かい話は忘れちゃったけど、昔の古典ってあるじゃん。ああいうの、初版の発行部数とかめっちゃ少ないって言うよね。印刷技術とかいろいろな問題もあるし、そんなに部数ない。「読める」人も限られてる。それでも世界を変えてしまう。
インターネットなんてメッセージ・イン・ア・ボトルが本来のあり方であってもいいわけで。【何人に】ではなく【誰か】に伝わればいいという考え方だってできる。どっちが正解とかじゃないけれど、今、自分がやってみたいのは【誰か】に届く、強く刺さる、だったりする。
だいたいがしてインプレッションが何人だ、いいねが何人だって言ったって、誰もいないバス停、見てないことをいいことに鼻くそほじりながら、次に友達から返ってくるはずのLINEが返ってくるまでのひまつぶし、断片化された集中力で、読む前から押す「いいね」とか、そんなんほぼ誤タップじゃん。誤タップの数を数えて、だから何なん、という考え方だって成り立つ。別にいらねーよ、ほぼ誤タップなんか。
なんならたくさんの人から共感を集めたり、同意を得たりしてしまうことなんておもしろくも正しくもないんだって可能性すらあるでしょう。世の中には「おもしろさがわからない」人だってたくさんいて、というか、そういう人のほうが多くて、それなのにそういう人たちをジャッジの基準にしても仕方ないというか。数が多いほうが正しいんだったら、とっくに正しいことなんて決まってるし、考える必要がない。すぐアンケートをとりたがるイーロン・マスクじゃないんだからさあ。
noteとかで文章を売って収益あげようって人もいて、サロンなんかも同じだけれど、一人500円とか1000円とかをたくさんの人から集めて、それで儲けようとか生活しようとかってある。でも、500円を100人から集めても50000円だけれど、一人の熱心なファンから50000円もらっても50000円なわけで、「長者の万灯貧者の一灯」とも言えるなら、その逆、長者が万灯くれるならそれでいいじゃんって考えだってある。長者の万灯でいいじゃん!
長者の万灯でいいじゃん!が成り立つのはお金だけじゃない。思想として、って言うと仰々しいけど、インパクト。影響ってことで考えても、人にインパクト与えるのに、たくさんの人に読まれる必要なんかまったくない。一人のとんでもない人に強い影響を与えるほうが何万リツイートだとか数億いいねだとかよりもインパクトあるかもしれない。そういう意味では「いいね」にも意味がないわけじゃなくて、結局「誰に」押されてるかってので嬉しくなったりもするわけだけど、要するに、何度も繰り返しになるけれど、数字じゃなくて誰に何を。大事なのはそこだよね。
だから別に、必要ないなら読まなきゃいいじゃんって思うし、読まれなくても何とも思わないし、むしろ文章を長くすることで、それでも読む人、読んでおもしろがる人をあぶり出してみたい、みたいな意地悪なところがある。別な言い方をするとこうだ。いいね!と言われているのになぜだかとてもイラつくことがある。明日はそんなことについて書いてみるつもりだけれど、ついてくる人がゼロになるまで。つっぱしってみるのもおもしろいかもなんて考えているのだから、自分はバカだ。
moriteppei.icon「Twitter Blueに加入すると1万字書けると言うので試しに書いてみた長文。Twitterは140字でキュ!とした世界だったけど、一万字だったらおしゃべりみたいな感じがおもしろいかなーって思って」