死
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新たなはじまり 変化 生まれ変わる
あなたはこのカードを引くしかなかったのです。ガチで。死のカードは不吉な兆というより、一つの機会と考えなさい。悪習を流しさり、過去を捨てる。大きな変化が足元で起きているかもしれません。前へ。古い関係は埋めてしまえ----ゾンビは二度と出てくることはないでしょう。ゾンビタロット 誰かが死の病を得ると、時の流れの心地よいうねりは一瞬で吹っ飛ぶ。早すぎる、時間がない、愛してる、まだあれが途中だ、これを伝えなきゃ。お願い、あとちょっとだけ! 説明したい。ああでもトビーはどこ? でなければ時は残酷なまでにゆっくりになる。死神がのんびり道草を食っているあいだに、こっちはじりじりしながら夜を待ち、またじりじりしながら朝を道草を食っているあいだに、こっちはじりじりしながら夜を待ち、またじりじりしながら朝を待つ。毎日小さくさよならを言う。ああもうこんなこと早く終わっちまえばいいに。ただひたすら<到着>と<出発>の掲示板を眺める。掃除婦のための手引書p.259 人が死の病を宣告されると、はじめは電話や手紙や見舞客が洪水のように押し寄せる。だが何か月かが過ぎ、だんだん状況が悪くなるにしたがい、誰も訪ねて来なくなる。病が力を得、時間がスローダウンし、けたたましく存在を主張しはじめるのはこのころだ。時計の音、教会の鐘、嘔吐の声、せいせいと吸っては吐く苦しげな息の音。掃除婦のための手引書p.264 われわれはよく死期はわからぬものだと言うが、そう言うとき、死期をどこか漠然と遠くの空間に位置するものとして想い描くだけで、その死期が、すでに始まったこの一日となんらかの関係があり、死それ自体がーーというより死が最初にわれわれを部分的に捉えてもはや放さなく瞬間がーーこの午後にも生じる可能性のあることを意味するとは考えもしない。この午後には、あらかじめすべての時間の予定が決まっていてなにひとつ不確実なものはなく、まずはおきまりの散歩に出かけ、きれいな空気の摂取がひと月後には必要量を充たすようにしたいと考え、手に携えてゆくコートや呼びつける御者の選択に迷ったあげく辻馬車に揺られる身となると、前途にはまるまる自由になるその日の昼間が広がり、それとて短いもので、女友だちの訪問に間に合うように帰っていなければなるまい、つぎの日も同様の好天だといいいなとは思うが、まさかそのとき、わが身中のべつの道を歩んできた死が、ほかでもないこの日をすでに選んでいて、数分後、馬車がシャンゼリゼにさしかかるほぼその瞬間、表舞台にすがたをあらわすとは夢にも思わないのである。ふだん死につきものの異様なすがたへの恐怖にとり憑かれている人も、こんな形で訪れる死ならーーむしろ死とのこんなたぐいの最初の接触ならーー、死が日常となんら変わらぬ見慣れた馴染みの外観をまとうだけに、なんとなく安心するかもしれない。すこし前には旺盛に昼食をとり、健康な人たちとなんら変わらぬ外出をしたのだが、そのあとの幌をたたんだ馬車での帰路が、死の最初の襲撃と重なるのだ。> 失われた時を求めて6巻 pp.316-7 しかしとりわけ、クレープ地のコートに身をつつんで入ってきた母のすがたを見たとたん、私が目にしているのはーーーーパリでは気づかなかったがーーーーもはや母ではなく祖母だと、はたと気づいた。王家や公爵家では、当主が没するとその称号を息子が継ぎ、オルレアン公爵がフランス王に、タラント大公がラ・トレムイユ公爵に、レ・ローム大公がゲルマント公爵になるのにも似て、それとは次元の異なるはるかに根の深い即位ではあるが、生者はしばしば死者にとり憑かれ、死者とそっくりの後継者となって死者の途切れた生を継承するのだ。 失われた時を求めて 8巻 pp.377-8 自分がやがて死ぬだろうと考えることは死ぬことよりも辛いが、それよりも辛いのは、ひとりの人間が死んだと考えること、その人間を呑みこんだ現実がその場所に波紋ひとつ残さずふたたび平らに広がっていると考えることだ。その人間が排除されてもはやなんの意志も意識も存在しない現実から遡って、その人間が生きていたと考えるのは、まだ最近まで生きていた人の想い出が、読みおえた小説の登場人物たちが残す想い出と、つまり捉えどころのないイメージと似たようなものだと考えるのと同じくらいむずかしいことである。失われた時を求めて 12巻 p.207