政治的
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矢口高雄、自然の描写が上手いって言われることに抵抗があるんだよね。いや、間違いなく自然描写はとんでもなく、これ以上なく上手いのよ。でも、「日本人」にとって「自然」の素晴らしさは、「日本人」なら「誰もが」否定できない、意見の割れない所与の正義だという神話があり、その強化に矢口高雄作品が使われてしまってる側面がある。 谷口自身は作品の中で野草の美しさから山菜のうまさまで、徹底的に自然も描写しているけれど、田舎の「村」が女性を、障害者を、事故や怪我にあった者たちを、どのようにして排除し続けてきたかも執拗に描写し続けてるんだよね。それこそ、そんな日本がこれから立ち上がっていく上で、もっとも大事なコアが「日本国憲法」にあることにも繰り返し触れている。 それを「自然の描写が上手い」とだけ、自然にだけ言及し、まるで政治性がないかのように表象してしまう政治性に引っかかるんですよ。 こんなことをわざわざ言うのは『おらが村』の帯をTHE BOOMの宮沢和史が書いてるんだけど、それがまさに典型的な「矢口先生自然が上手い」の非政治性にとらわれちゃってる文章なんだよね。 何の反省もなく、ただただナイーブに「日本人として決して忘れてはいけないもの」などと書いてしまっている。「日本人」として決して忘れてはいけないものは、この国に住む「日本人」以外の人でしょうよ......。「島唄」とか歌ってる人からして「これ」「この程度」なので本当にびっくりしてしまう。
さらに「経済活動・開発・天災・人災による環境変化」から現代人は「逃れられない」と書いてるんだが、人災も開発も経済活動も政治によって逃れることは可能だし、「天災」すら「人間の活動のせいで発生してる」という認識すらあるでしょう......。 ここには自然とそれを受け入れ向き合い「そのまま」で生きるだけの人間という、非常に問題のある図式が再生産されてしまっているし、そこから何が消えているのかというと「社会」であり「政治」なんだよね。そして残った「自然」を矢口先生は描いてる、って話になってしまう。 ところが矢口高雄は、登場人物の言葉を通じて、障がい者を殺したのは、何の悪意もないお前ら村人だと言い、また別の場所では別の人物に「嫁にいくのと結婚は違う、結婚は両性の合意に基づくものだ」と言わせ、「したくない人は結婚なんかしなくていいじゃないか」とも言わせてるんだよね。 もちろんここで宮沢が「日本人として決して忘れてはいけないもの」として日本国憲法などを思い浮かべているのだとしたら謝るが、直前の逆接を見るかぎりそうではないでしょう......。
日本のミュージシャンの「社会性」だの「政治性」だのは、この程度がアベレージと思っているので、岸田繁のあの発言見ても「ああ、そうでしょうね」と思ってるし、坂本龍一ですら、政治性をちょっと高く評価されすぎでない?とは思ってる。