嫉妬
嫉妬とは、つねに過去をふり返る点で歴史家に似ているが、ただしなんの史料もなく歴史を書かざるをえない歴史家のようなものである。嫉妬は、つねに手遅れになって慌てふためく点では猛り狂った牡牛のようなもので、槍を何本も突き立てて自分を怒らせる相手めがけて突進するが、誇り高く凛々しい相手はすでに身をかわしていて、その華麗にして狡猾なわざに残忍な群衆が拍手喝采するばかりである。嫉妬が虚空で身もだえするなんとも不確かな心持ちは、われわれが夢のなかで感じる不確かな状態とそっくりで、実人生でよく知っていた人を夢のなかで訪ねてもその家は空っぽで相手には会えず辛い想いをするが、夢のなかではそれは別人となり、べつの人の顔立ちを借りているだけなのかもしれない。失われた時を求めて10巻 p.329 私にとってアルベルチーヌとの生活は、一方で私が嫉妬していないときは退屈でしかなく、他方で私が嫉妬しているときは苦痛でしかなかった。失われた時を求めて11巻p.469 たとえば私は、ねたみを克服するのがとても難しかった。 若い頃はよく人をねたんだものだ。 でもねたみを捨てる方法を少しずつ学んでいった。 今もねたみが頭をもたげることがあるよ。 とても毒性の高い感情だ。 ねたんでも何もいいことはない。 自分は情けない気持ちになるし、 ねたんでいる相手は相変わらず成功していたり、ルックスがよかったりする。 そしてある日気がついたんだ。 私はねたんでいたどの相手についても、その人の人生の1つの側面をねたんでいたんじゃなかった。 その人の体が欲しいとか、 お金が欲しい、人柄が欲しいということじゃなかった。 まるごとその人になる必要があったんだ。 そこでこう考えてみた。 私はその人の反応や欲望、 家族、幸福レベル、 人生展望、 自己イメージといったすべてをひっくるめた存在になりたいのか、と。 その人と完全に、 四六時中、 100% 入れ替わる覚悟がない限り、ねたんでも仕方がない。 これに気づいたことで、ねたみは消えた。 私は自分以外の誰にもなりたくなかった。シリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカント / エリック・ジョーゲンソン 164ページ