失敗から人は学ぶが差別問題での失敗は許されない
学習をするためには失敗が必要。人は安心して失敗できる環境で、試行錯誤をすることで学ぶ 子どもを叱っても基本学習効果低いと理解されてるのに、「差別するおとな」に同じことして学習効果高いかどうかという疑問が生まれないのはおかしい。moriteppei.icon
差別は人を殺す。いや、本当にそうなんだけど。でも、他方で「みんなやったことあるし、何なら今日もさっきしてたのに全然気づいてない」。それが差別なわけでしょ。だから勉強したり少しでも良くなるようにポジティブに学習するのはいいけれど、あんまり気に病みすぎない方がいいのかもしれない。ジェイソン・ライトマン監督の『ヤングアダルト』って作品がこのあたりの「日常にフッツーーにありまくる差別」の描写が大変素晴らしく、感銘を受けたので、ぜひ見てください。ネトフリで行けたと思う。 むしろ真面目に誠実に考えるならば、あまりにも失敗を恐れてしまうと、失敗できず、学習できず、また他者も恐れさせてしまうため、他者からも失敗の機会を奪う、要するに「いいことなし」になりかねないので、それくらいに考えて生きるようにしてる。moriteppei.icon
「差別」という言葉に対する忌避が強すぎて、一度「差別」したら二度と社会復帰できないくらいの烙印になるから、やってることは事実上「差別」であっても「偏見」「嫌悪」って言い換えるのよね。「偏見」「嫌悪」は個人の自由の範囲内に見えるものね。「差別」の語感には、客観性や公正性があるから。誰でもやってしまうのが「差別」で、自分も周りの人にも同じことを繰り返させないために「差別」は「差別」として認めて、じゃあ、その行為のどこが「差別」なのかって考えればいいのにね。
かたや一度「差別」って認知すると、その行為の内実問わずにこれは全部「差別」っていう問題もあって、日本に住んでると得意になるのは「思考停止」だよなっておもうわん。
SO_pck_まじめにふまじめ.icon