ヤングアダルト
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先日、ジェイソン・ライトマン監督の『ヤングアダルト』を見て大変感銘を受けたのだけど、作品全体、差別差別のオンパレードなんだよね。中には障害者が障害者を差別するシーンもあれば、バツイチの女性がシングルマザーをバカにするシーンもある。でも、不思議と視聴感が爽やかで、差別的な表現があることに「必然」を感じてしまう。これがなぜなのか、上手く言語化できないのだけど、でも「こうした言葉は使わないようにしましょう」という意味でのポリコレとはまたまったく異なる「差別」の描き方で。だって、差別って絶対にしてはいけないことだけど、日々、みんなが「してること」だよね。そこにウソをつかずに真面目に掬い取ってるのだと感じる脚本、映像だった。日本でもこういうの、描けないかなあ。 ジェイソン・ライトマン、ほんとどの作品も素晴らしくて。『ジュノ』では主人公の女の子が妊娠しちゃって、中絶しようとしたり、それでも産もうとしたりするんだけど、この子がしっかりとバカで、ひでーこと言うんだよね。そういう「あなたと同じように差別的な人間」がきっちり画面に映りつつ、でも根底ではそういうこと許してないと視聴者に伝えるのって、どうすればいいんだろう。 主人公は本当に感じ悪い女で、それをまたシャーリーズ・セロンが演じてるのがとてもよい。ゲイや障害者、それだけじゃなくて自分の出身地の人間を軒並み下に見てる。だから地元を出るんだけどミネアポリスという都会で暮らしていれば、今度は「下に見られる」側。売れないヤングアダルトのただのゴーストライター。だから人をあれやこれやで見下してしまうのだが、そんな自分だけが幸せになれないのはなんで???と悩む。他方で悪意のない、害意のない地元民の「残酷さ」「キツさ」がこの映画ではしっかりと描かれている。こういう差別の描き方もあったのかと大変感銘を受けた。 人が人を見下して、そのせいで幸せになれない。それはなんで??という問いかけになっていて、そのためにも差別をする主人公の差別発言を、糾弾するのではなくただただ描いていく方法論が必要になってる。
他方で何も悪いことを言わない、基本的にあるもので満ち足りていく田舎町の残酷さも描かれていて、善意しかない、いいひとばかりの田舎町が「とっくに合わないものを排除しおえた結果の幸福、満足」でしかないこともしっかり描けている。その田舎町から追い出されたのが主人公なのだ。 それとジェイソン・ライトマンの作品、ロック好きはニヤニヤしてしまう小ネタ満載なんだよね。『ジュノ』では主人公ジュノの部屋にパティ・スミス、ホーセスのジャケが飾ってある(笑)。それに対して養子の引取先のおじさんは大のグランジ好き。逆じゃねーの?って笑いを誘う。 『ヤングアダルト』でも、さらっとダイナソージュニアがかかったりする。(「すべての人の痛みを感じる。それから何も感じなくなった」って歌詞)あと、ステータス・クォーね!ステータス・クォーというバンドタイトルが織り込まれた歌を主人公は歌いまくるんだけど、ステータス・クォー=現状維持だからね(笑)。田舎町に対する揶揄というか、田舎の人たちの「信じられないしぶとさ」がわかりやすく表現されてる。 主人公が住んでるのがミネアポリス。そこにとある登場人物が言う。「連れていってよ」(Take me with you)。ミネアポリスはプリンスの出身地で、take me with Uはもちろんプリンスの曲。こんなのがゴロゴロあって、そのどれもがいやらしくないしきちんとハマってる。 「ステータスクォー」を歌詞に読み込んでる曲はティーンエイジ・ファンクラブの「ザ・コンセプト」って曲でした。バンドワゴネスクっていう、バンドのブレイク作の冒頭曲。しっかし、歌詞がひどくて、いや、これは文字通りひどくて(笑)「あの子はどこにいくにもデニムを履いて」「ステータスクォーのレコード買う時も」の「どこにいくにも」(wherever she goes)と「ステータスクォー」(status quo)で韻を踏んでるんだけど、その韻の踏み方、クッソダサくない?まあ、TFCはバンド名からして「ダサさ」がテーマみたいなバンドだろうけど……。 moriteppei.icon日本でポリコレというと、差別的な表現をしない配慮のみを指してることが多い気がする。プラチックな差別の描写は、適切になされていれば、差別的であっても、差別的であるからこそ、おもしろいし、差別に対する理解を深めてくれる。ジェイソン・ライトマンの作品はどれもすっごくいい。全部制覇したい。