嘆きつつ獨りぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る
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右大将道綱母のこの歌も柿本人麻呂と同じく「夜の長さ」、それも「獨り」の夜の長さを詠んだものであり、そういう意味では「ひとりぼっちの夜って長いね」は和歌ではよく歌われるテーマ、言ってみればクリシェである。でも、だったらそんなクリシェ、手垢のついた感慨を歌った歌がなぜ百人一首に選ばれてんだ?と気になってくる。この歌、本当にいい歌なのか? 「バラけさせないといけないし右大将道綱母も一応入れておくかあ......いい歌ないけれど、じゃあ一番マシなこれで」というような人では右大将道綱母は、まったくない。そもそもこの人、日本三大美女の一人にも選ばれたりする美女だと言われている。歌の才能もとんでもない。代表作は蜻蛉日記。日本の古典にその名を残す日記文学の代表。才能の塊みたいな人である。したがっていまいちな歌だけど仕方なく収録したわけではないのである。 歌の意は「泣きながらひとりで寝る夜が明けるまでがいかに長いものか、あなたは知っていますか?」。
「知っていますか?」と聞いているけれど「知らないくせに」とでも言いたげな反語ニュアンスも強く感じる。なぜ「知らないくせに」になるかというと、当時の貴族が通い婚だから。すなわち女は男が来るのを待つしかない。男は女が来るのを「待つ」身ではないから、まずはそれで「知らないくせに」となる。「男のあなたは」という男女のジェンダーを詠んだ歌でもあるというわけだ。
別の解釈もできる。確かに相手の男は、男なので、女が通ってくるのを泣きながら待つ、といった体験をしたことはないだろう。けれども足引きの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ、そんな「夜の長さ」は恋する人なら誰しも「知ってる」のだ。「知らないでしょう」と言うけれど、「知ってる」「わかる」に決まってるだろうと。 ここでクリシェが効いてくる。文学的な表現とは実はそもそも矛盾していたりする。というのも、誰にでもわかるようなある種普遍的でよく体験される経験であれば、いちいち文学として、「私の」表現として表現しなおす価値はそこまで高くない。かといって「私にしかわからない」ことであれば、それは文字通り「わからない」。伝えようとしているのに伝わらない。「伝わらないからこそ、どうしても伝えたいから伝える」。すべてのとは言わないが、ある種の表現の矛盾というのはそうしたものだ。
ただし、ここで注意しておきたいのは、それが同時に、 「仮面」の背後で、 その 「仮面」 を操っている自分、つまり、「演技」している本当の自分 (内面)という信憑を作り出していく過程でもあったという点です。 もちろん、「仮面」が機能しているあいだは「内面」が前景化してくることはありません。 が、 ひとたび「仮面」に綻びが生じ、それが他者からの承認を得られなくなってしまえば話は違います。 その時に発見されたのが、 「仮面」の綻びを「内面」の真実で言い訳したいという欲望、つまり、 「自己表現」 の欲望でした。 反戦後論 浜崎洋介・34ページ しかし、ここで近代文学は一つのジレンマを胚胎することになります。 というのも、 「仮面」 の綻びを糊塗するために見出されたのが 「内面」 だったのだとして、 しかし、それを外に向かって表現してしまえば、それ自体が新たな「仮面」になってしまうからです。言い換えれば、社会の交換価値に還元できないがゆえに見出されていた「内面」は、 しかし、 それが表象されてしまった瞬間、 それこそが 「社会に優越=自律する自我」 であるなどという交換価値 (他者に対する仮面的意味)を持って流通しはじめてしまうのだということです。 ここに、 「自己 (内)表現 (外)」 を価値化してしまった近代文学の逆説が存在しています。反戦後論 浜崎洋介 34ページ 仮面をかぶって私たちは生活している。だから、仮面をかぶっていない内面を知ってほしい。でも、言葉に乗せることで内面が知られ、理解され、流通すれば、それは「わかられて」しまう。私の内面ではなく「みんなの内面」になってしまったり、私の「仮面」の一つになってしまうのである。
右大将道綱母は近代の人ではないけれど、その歌で言えばこういうことだ。「泣きながらひとりで寝る夜が明けるまでがいかに長いものか」、他ならぬ私のこの気持ちはあなたにはわからないのだと。他方でわかってくれると期待されるからこそ、この歌は詠まれたのだし、相手に投げかけられたはずだ。
ここでこの「一人の夜は長い」がクリシェであることと疑問文になっていることが効いてくる。一人の夜は辛い。だがそのことはみんなが知っている。みんな知ってることをもちろん右大将道綱母も知っていて、だからここでの「泣きながらひとりで寝る夜が明けるまでがいかに長いものか、あなたは知っていますか?」は「知らないですよね / 知ってますよね」の声が同時に聞こえるのだ。「私の」つらさはわからない、この気持ち「みんな」わかるでしょ?
「獨り」ぬる夜を過ごすのは決して「ひとり」じゃない。みんなその「長さ」を知っているし、それがいかに長かろうともいつかは「明くる」ものだと知っている。じめじめした泣き言を恨みがましく詠んでいるようでいて、でも、じめじめとはしてない、湿度は高くないのだ。