近代文学の逆説
浜崎洋介は「仮面のほころびと仮面の背後にある内面」が近代文学の根本的なテーマなのだが、その内面を文学として提示した瞬間に、内面は新たな「仮面」になってしまい、価値として流通してしまうことを「近代文学の逆説」と呼んでいる。 ただし、ここで注意しておきたいのは、それが同時に、 「仮面」の背後で、 その 「仮面」 を操っている自分、つまり、「演技」している本当の自分 (内面)という信憑を作り出していく過程でもあったという点です。 もちろん、「仮面」が機能しているあいだは「内面」が前景化してくることはありません。 が、 ひとたび「仮面」に綻びが生じ、それが他者からの承認を得られなくなってしまえば話は違います。 その時に発見されたのが、 「仮面」の綻びを「内面」の真実で言い訳したいという欲望、つまり、 「自己表現」 の欲望でした。 反戦後論 浜崎洋介・34ページ しかし、ここで近代文学は一つのジレンマを胚胎することになります。 というのも、 「仮面」 の綻びを糊塗するために見出されたのが 「内面」 だったのだとして、 しかし、それを外に向かって表現してしまえば、それ自体が新たな「仮面」になってしまうからです。言い換えれば、社会の交換価値に還元できないがゆえに見出されていた「内面」は、 しかし、 それが表象されてしまった瞬間、 それこそが 「社会に優越=自律する自我」 であるなどという交換価値 (他者に対する仮面的意味)を持って流通しはじめてしまうのだということです。 ここに、 「自己 (内)表現 (外)」 を価値化してしまった近代文学の逆説が存在しています。反戦後論 浜崎洋介 34ページ そこでおもしろいのが嶽本野ばらで、彼はさらっと「大事なのは仮面」「内面なんてくだらない」と『それいぬ』で書いている。これ、近代小説に対するでっかいアンチテーゼで、それをさらっと書いてるのがとてもよい。 鳴呼だって、僕は綺麗なものが好きで汚いものが嫌いなだけなのですもの。 文学も美術も思想も数式も生物も時間も、美しければ全て正解。 内容なんて必要ないのです。 内面の美しささえあれば外見なんて構わない、 という正論の何と傲慢なことよ。 僕は自分の内面なんてとてもじゃないけどさらけだせない。 こんなに混沌とした醜悪なものをどうして人に見せられましょうか。 きっと相手は不快になるばかり。 僕の表面だけ見てくれとおっしゃったのはウォーホル先生。そう、表層なら努力すれば取り繕える。 こうありたいと思うものに近づける。 切なる願望の結晶こそが表面なのです。それいぬ 嶽本野ばら ・ 位置 1539 綺麗といわれることに命を砕いてナルシストと非難されるのは一向に構いません。 外面に対し勤勉に努力する人の表層より自分の内面が遥かに美しいと思い込む厚顔無知な自惚れに比べれば、罪は浅いのですから。きっと美の中に存在する切なさとは、 醜悪な現実をひた隠しにして自分の存在の理想を求めている羞恥心と不安です(嘘と同じ構成要素ですね)。 美の存在意義を知らないものだけが愛を履き違える。 健全な愛は健全な美に宿るのです。 さぁ、 愛の為に今日も洗顔いたしましょう。それいぬ 嶽本野ばら ・位置 1550 数式も生物も「美しければ全て正解」「内容なんて必要ない」は言い過ぎだけれども(笑)。