会場とのコンセンサスをつくる
https://gyazo.com/7e94d1b5a6b55c378c0f7daed2420be8
ハゲネタ、ブスいじりがよくなされる(ブスは減ったかな)。「ハゲがなんでおもしろいのかちっともわからん」って人も多いと思うけど、それなのになんでなくならないのか。すぐに「意識が遅れてる」「意識が低い」で処理するのではなく(それは遅れた意識の大衆と進んだ意識の特権階級の私という差異化にしかならない)、「なぜそうなるのか」を考える必要があるし、それこそが分析だと思う。 そもそも意識が遅れた大衆を置いてきぼりにしても成立する「倫理的特権エリート」の素人のあなたと、言うてもその遅れた大衆に一定の寄り添いを見せた上で「笑わせる」という高度なミッションを達成しなければならない芸人とでそら全然立場違うだろって話。
トレンディエンジェルの斉藤が、先輩のダイノジ大谷から「ハゲネタをやれ」と言われた理由が考えさせられる。 斉藤の「もうそんな時代じゃない」って認識も素晴らしいが、それに対する大谷の「まずそれを処理しないと」も素晴らしいアドバイスだと思う。本人たちがいくら「気にしない」とか「欠点だと思ってない」「個性だとすら思ってない」としても、周囲が気にしてそれを押し付けてくるものこそがコンプレックスであり、そうしたコンプレックスの代表がブス、ハゲ、シャクレだったりする。 ハゲた芸人が出てくる。そこに触れないでネタをする。その時点で「気になってしまい笑えない観客がそれなりの数いる」ってこと。そこでハゲでーす!と自分からネタにしてしまうと「あ、笑っていいんだ」「ハゲと見ても怒られないんだ」というコンセンサスが生まれる。安心がないと笑えない。演者もやりやすくなるし、お客さんも落ち着く。
こうしたテクニックと単なる悪質な、エイブリズムやルッキズムに基づく他者に対する罵倒を(倫理的な善悪はいったんわきにおき)区別する必要がある。「安牌通す」と自分は呼んでいるが、①他者ではなくあくまで自分たちをネタにしていること、②ツカミなど必要最小限かつタイミングを限定してネタにする(メインにしない)。①かつ②の場合をそうでない場合から区別するべき。 たとえばギャロップ。漫才のツカミではハゲネタを入れてくる。「すみませんこんな頭のやつで」「みんな生えすぎちゃう?」「お前が抜けすぎやねん」。しかし、この後は特にハゲネタに関係ないネタを展開する。このツカミはとても優秀で①ハゲに対するコンセンサスを取るとともに、②「みんな生えすぎちゃう?」で林の「ほとんど詭弁の、思い込みの強さ」の自己紹介にもなってる。 https://youtu.be/efslYHu99hU?si=he0WRmi6YXN3FLj1
この城之内チャンネルもそう。もちろん他人のルックスを見て何かを思ったりすること自体がよくないことなのだろうし、あなたは倫理的に高潔で高い教育も受けてらっしゃるからそんなことはないのかもしれないが、何の説明もなく、この人を見たときに「シャクレ」が気になってしまう人が一定程度(婉曲表現。実際は相当数)いることは否定できない。
https://youtu.be/b-w0s_mV-A0?si=BhJsWz8JZSFbZiXc
その場合にこの人が「それでもyoutubeで人気者になったり、一般社会でストレスなく暮らしていく」、つまりはコンプレックスと付き合っていくためには「自ら言及する」「ネタにする」しかなかったりする。結果、「説得力ある」「尊敬する」「おもしろい」という評価を獲得している。アゴに触れずに何か全然関係ない投稿をしていたら、残念だけど、心ないコメントが大量についてたのではないか。
それでも当事者は傷つくんだと言うかもしれない。実際傷つく人も少なくないだろう。でも、これを肯定的に受け止める当事者だっている。
https://gyazo.com/f78eb2590a43a16990b8c7ae438eaa99
こんなコメントしてる人がいて、524件のサムアップがある。
本人が自分の属性について自嘲的、自虐的にネタにすることさえ禁じられるなら、ただただ全員が内心で「デブだな」「シャクレてるな.....」「あ、ハゲてる」と思っている中で、それに触れて状況を変えることすら当事者には許されないことになる。これは結構キツいかもしれない。
次は霜降り明星の例。2023年のTHE MANZAIでは、粗品がせいやを「お前ハゲてるやんけーーーー!」といじり、せいやが粗品を「スピード離婚!」といじるというネタ。これも完全にハゲや離婚をネタにしてるし、当事者の人たちからすると「傷ついた」かもしれないが、でも、何も触れずにネタをやろうとしても、どーせ茶の間では「せいやも髪薄なったなあ」「キてんなあ」って言われるだけだし、「粗品、離婚やて」「この人いたいよなあ」ってなるだけ。でも、相方からの、舞台の上での指摘であれば、大爆笑が取れてしまう。離婚もハゲもフライデーも。そのままだと見てるほうが気になってしまう。気にならないように先に「とおし」で笑いに変えてしまうってこと。 https://youtu.be/v6qQHRt6pBM?si=BFsZOoUjip2B83Pb
小学生の時から脱毛症だった私もこの気持ちわかるなぁ。 「ハゲ」や「かつら」をネタにする風習があるのはわかるけど、正直グサッとくるものがある😂 / そういえばある芸人さんがこうやって言ってたなぁ / 「心配してるのは、芸人である僕らが薄毛について話ししたら、日常生活で薄毛ノリみたいなことをやってしまって、(テレビを観ている人が)誰か薄毛を傷つけてしまう可能性があると思う。それは、ぜひやめてもらいたい。俺たちのことは、シルク・ド・ソレイユと思ってもらったらいいんですよ」 / って言ってたけどこの見解ほんと好き笑 「正直グサっとくる」からコンプレックスをネタにすることをこの方も当事者として肯定はしていない。けれども「俺たちのことはシルク・ド・ソレイユと思ってもらったらいい」という意見は「たしかに」となる。舞台上の、信頼関係がある上での、限定されたネタとして、自分に向けた、相方の了承を得た上で、プロのワザだから許されてることなのに、それを自分たちもやっていいんだとか、お笑いってそういうことなんだと勘違いして日常生活に敷衍してしまうことこそが問題なのかもしれない。「東海オンエアが落ちてるものを拾って食ってるからと言って、それをマネしちゃダメだと理解できる程度の能力」が広く視聴者に期待できるのであれば、特定の条件下でコンプレックスをネタにしても問題はないかもしれない。
他方でコンセンサスづくりはプロであっても容易に失敗したり、加害に転じることもある。アジアンの例は典型かもしれない。ブスなのにブスだから、ブスというコンセンサスをつくろうとしているんだろうが失敗してる。①言うても隅田がそこまでのブスではない。スタイルもいいし、むしろ「美人」に見せることすら可能な微妙なラインであり、相方の馬場園と比較してもブスとはわかりにくい。「微妙だからこそこれをブスということで一つコンセンサスをとらせてくれ」ということなのだろうが、なぜそんなことをしなければいけないかというと、漫才本編もブスという設定にたよりきったボケやツッコミをしているからだと思う。②いくら相方とはいえ、隅田本人が強く嫌がっているのに、笑いのためだと受け入れさせるならそれは単なるいじめ、暴力でしかない。 M1グランプリ 2023ではシシガシラが決勝戦でハゲネタを披露。「看護婦は看護師、スチュワーデスはCAと言い換えないといけない世の中なのになぜハゲは言っていいの?」という、ある意味「ポリコレって不条理ですよね」というメタ笑いなのだが、これが自虐ネタと【しか】とられないのも問題だと思うのだが、審査員の松本人志から「ツカミの後、本編はハゲ以外のネタが見たかった」と言われてしまう。それに対して「他のネタもほとんどがハゲネタなのにどうすれば」というのが本人たちの弁。 よく「ダウンタウンのせいで主流となったいじめの笑い、いじりネタ」のような言い方がSNSでは見られるが、その松本からして「もう特にハゲネタせんでもええんちゃうかな」とアドバイスが出るのが2023年だったりする。