エイブリズム
わたしたちは人間を殺すことと鶏を殺すことを同じくらい悪いと語らねばならないのか? 知的障害者と人間以外の動物の価値を貶める人格理論をあっさりと受け入れるよりもむしろ、わたしは、このような居心地の悪い問いのかずかずに答えを出さないままにしておこう。さまざまな価値の位階を決定するための必要を単に満たそうとしてわたしたちの道徳にかんする理解に制限をかけてしまうよりかは、そうした居心地の悪い空間をーー限りなく開かれたままでありつづけるであろう、そうした空間をーー率直に認めるほうがましだからだ。ある理論がたった一つの結論へと駆り立てるなら、その理論はあまり優れたものではないか、完成されたものではないかのどちらかだ。これらの問いは悩ましくはあるものの、明快な回答を与えることがわたしにとって何より重要な仕事というわけではないーー異なる生の価値を対立関係に置くことは、位階という哲学を当然のものとして受け入れることなのだ。むしろわたしは、こう問うてみたいーー動物と人間(障害者であれ健常者であれ)の生のあいだでの二者択一そのものが、誤った二分法にもとづいているということが理解される世界を、わたしたちは、いかにしてつくりだすことができるだろうか? 荷を引く獣たち スナウラ・テイラーp.223 シンガーの仕事でいちばん苛立たしいことの一つが、障害者を防御的にさせるその仕方だーーわたしたちは、シンガーと彼の支持者たちに向けて、わたしたちの生が障害をもたない身体の人びとの生と、同じくらい価値があるということを証明する責任を負わされるのだ。けれどもシンガーには、わたしたちの生が満足感の小さいものだということを証明する義務がない。なぜなら彼の側には、根深い健常者中心主義の文化が、そして多くの障害者研究者たちが〈強制的健常身体性のシステム〉と呼ぶものがあるからだ。障害を、欠点や欠陥、あるいは治癒されるべきものとして論じる主張は、障害を良くないものとして考えることが「自然」かつ「正常」だという発想に依拠しているーーこれが「常識」だということは、あらゆる人びとが知っている。フィオナ・キャンベルが語るように、「健常者中心主義のシステムは、集団的主体性に至るほどに、そして障害とは本来否定的なものだという通念が、逸脱に対する自然な反応として思われるほどに、障害に対する否定を深くかたちづくっている」。荷を引く獣たち スナウラ・テイラーpp.237, 238