井戸の茶碗
https://youtu.be/n3r_hP1lfJA?si=G1yfTt8UN7JSo0Yq
まちのくず屋清兵衛。おちぶれた武士(千代田卜斎)から無理やり引取らされた小さな仏像を別の武士(高木作左衛門)に売ったところ、中から五十両が出てくる。高木は「私は仏像を買ったのであって五十両を買ったわけではない。受け取らない。元の持ち主に返してほしい」と言う。千代田も千代田で「私は仏像を手放した。手放したからにはこれは買い取った人のものだ」。どちらも頑なに受け取らない。
困ったくず屋は長屋かなんかの人に入れ知恵をもらって、10両は自分、残りを20両ずつ高木と千代田に渡そうとする。が、高木は受け取るが千代田は「情けはうけたくない」と一切受け取ろうとしない。そこでくず屋は「何でもいいから手元のものを高木様にお渡しする。その代わりに20両受け取るってことでどうですか」と説得する。「この使いふるしのみすぼらしい茶碗でよければ」とこれを高木に渡すのだが、話を聞いた細川の殿様とその目利きがその茶碗を見ると今度はこれが井戸の茶碗。茶碗は殿様へ。そして高木は殿様から300両もらうことになってしまった。
半額の150両を千代田に渡そうと思うが、やっぱり千代田は受け取らない。そこでまたくず屋が「なんでもいいから高木様に代わりに何かをあげては?」。考えた千代田は独身の高木に娘をさしあげたいという。もしそうしてくれるなら支度金として150両受け取ろうと。高木はこれを快諾。くず屋は言う。「今は裏長屋にいるからちょいとくすんでいますがこちらへ連れてきて磨いてごらんなさい。いい女になりますよ」。サゲは「いや磨くのはよそう。また小判が出るといけない」。
①「私たちは商売柄と申しますか生まれつきと申しますか。よく嘘をついておりました。ただまあ、他愛のない嘘でございますから大した罪にはなりません」「我々がそんなことは説明するまでもございませんで。お客様方の方がよくご存知で」「ああいう連中の言うこと間に受けちゃダメだよと心得てくださるものですから、安心していろんな嘘をついているというようなわけで」
②「しかし人間というものはやっぱりなんといっても正直に限りますな」「やっぱり正直な方というのは大変不器用で、話を聞いていても心があたたまるなんていうようなことがございます」。
五十両に三百両。どちらもとんでもない大金である。貧乏で生活も苦しいというのにこれを「受け取らない」と意地を最後まで張りとおす人間なんているわけがない。だから、志ん朝がこれから話す話もどう考えても嘘なのである。でも、そんなことは客もわかってる。わかっていてくれるから噺家は「安心していろんな嘘」がつけるのだ。これからするのは嘘です、一緒に嘘を信じましょうというポイントで会場とのコンセンサスをつくることに成功してる。嘘を嘘でないフリをして話しても、お客様は信じてくれないが、嘘だとわかった上でなら乗ってきてくれるのである。 (ノンスタ石田のネタづくり理論で石田も言っているが、お笑いにおいて、まるではじめてその話をその場でしているようなフリを漫才師はするし、その嘘を嘘だと知ってお客さんは「嘘を既に一つ飲み込んでくれてる」。したがってその後に嘘は重ねたくないのだが、「これからするのは嘘です」という本当を言うことで、志ん朝はここでその後の嘘を飲み込ませている。) それでも、生活に困ってるのに、大金を、一度は固辞するにしても受け取らないなんてあるか???というところにもう一つ、②のマクラを志ん朝は入れてくる。そうは言っても人間正直が一番なのだと。これはそう信じたいという気持ちを観客に起こさせる。そして「やっぱり正直な方というのは大変不器用で、話を聞いていても心があたたまる」と志ん朝は言う。「正直って言ったって貧乏なのにカネを受け取らないなんてあるか」を「正直だと不器用だから、貧乏にもなるけれど、だからこそあったかいんだ」にマクラで話を書き換えてしまう。ここがもう本当にすっごいセンスがいい。
清兵衛、高木、千代田卜斎。全員貧乏で全員正直。清兵衛にはバカ正直に「自分は目が利かない」と言わせ、高木には「できるだけ高く買ってやりたいが今は懐がさみしい」と言わせ、千代田卜斎については「昔、つまらないことで意地をはってしまって今は浪人の身」と言わせる。つまらない意地はってそんな苦境に立たされてるんだから、わかってんなら、とっとと五十両受け取れよ!!!と思ってしまうはずなのだが、マクラでロジックが逆転してるから「そうか。五十両でも固辞するくらいの正直者だから浪人になっちゃったのか。こんな人に幸せになってもらいてえよなあ......」となる。
その「こうあってほしい」のパワーだけで、嘘はどんどん加速する。最初の五十両だけならまだしもなんと三百両も受け取らないというところまでいってしまう。普通ここまで行くと「いや、さすがに三百両はwww」となっていいはずなのだが、そうはならない。「嘘」は一度飲み込んでしまうと、芋蔓式に飲み込まざるを得ない(『影響力の武器』コミットメントと一貫性参照)。結局、「三百両を譲り合うようなバカ正直が三人集まる奇跡」を客は「本当」だと自ら信じ込んでしまう。これこそ、稀代の他愛ない嘘つき、噺家の面目躍如だ。 最後は仏像や茶碗と同じ、「モノ」として、娘という女性が三百両と「交換」される。ここはポリコレ的には完全にアウトなはずなのだが、それでもだいぶ「消臭」されているのは、三百両というのがほとんど価値としてブッ壊れているからだろう。一両をどれほどと見るか。詳しいことはわからないが、数万円、5万円で計算しても百五十両は1000万円近い大金だ。200匁のカネの工面で四苦八苦している人たちが「娘を受け取るなら1000万円を受け取ってほしい」というのは、それほど娘が「プライスレス」だという話になる。 そして、結婚、婚姻ということは、要するに二つのものが一緒になるということである。つまり「お金」の意味がここでは貨幣経済における「商品」と「金銭」の等価交換からすり替わっている。そう思ってみると、この噺では一切等価交換が出てこない。正確に言うと「等価交換を否定するために等価交換がロジックとして使われる」。「私が買ったのは仏像であって五十両ではない」という理屈で、「300匁と五十両の等価交換」を否定しているのである。だから最後は「娘となら百五十両を交換する」という理屈で「百五十両を井戸の茶碗の対価として受け取る等価交換」と「娘を商品として交換する」という等価交換を両方否定しているように感じられるのだ。