ビジョン
ビジョンはそもそも、いっさい責任を取るつもりもなく、実現可能性にも触れられていない"純然たる欲求"でなければいけません。なぜなら、それは遊び人から聞こえてくる素直な声でなければいけないからです。 / むしろいい加減なビジョンであるほうが望ましく、その欲求が心に忠実でさえあればあるほど歓迎すべきです。他の細かいことは放っておいても構いません。 / 個々のビジョンがどれだけいい加減なものであったとしても、それらのビジョンが集まれば集まるほど、そこからコンセプトを生み出しやすくなるのです。改めて、ビジョン群を読み返してみてください。/ 一つのビジョンを否定するのは簡単でしたが...... / ・うちのおばあちゃんでも遊べるゲームがあればいいのに / ・ゲーム叩きの風潮が収まればいいのに / ・ゲームが映画や小説や音楽みたいに、文化として認められる社会になればいいのに / ・女性がゲーム機を嫌っている現状を変えられたらいいのに / ・ゲームが難しくなって、新しいユーザーが増えにくい現状を変えられたらいいのに / ・ゲームが趣味ですって言うときに、堂々と胸を張れる自分になれたらいいのに / ・鍋で一家団欒を楽しむのと同じように、ゲームを楽しんでもらえたらいいのに / 一つ一つは簡単に砕くことができるビジョンであっても、無数のビジョンが集まると、ビジョンの向こう側が透けて見えるように思えてくるときがあります。 あらゆるビジョンの後ろで糸を引いている、巨大な真の敵のようなものが、うっすらと姿を現しはじめているように感じることがあるんです。 コンセプトのつくりかた 玉樹真一郎pp.66,7 無数のビジョンの群れの向こうにうっすらと見えるものに、目を凝らしましょう。 / それが未知の雲を打ち砕く、世界を良くするコンセプトにきっとなるはずです、いわばコンセプトとは、「複数のビジョンが抱える複数の問題を同時に解決してしまう魔法」のようなものだといえます。遊び人の世界では、「問題が多いほど解決しやすくなる」という不思議な現象が起こるのです。 コンセプトのつくりかた 玉樹真一郎p68 遊び人の世界で生じるもう1つの不思議な現象とは、「否定されるビジョンほど価値がある」という価値の逆転現象です。私たちが求めるべきは、未だユーザーも私たちもが発見できていない未知の良さであって、既知の良さに頼りたくなる気持ちと決別しなければなりません。あるビジョンに「良い」という形容詞を使えるということは、そのビジョン自体が既知の良さに近づいていることの現れです。一方、ビジョンに「良い」という言葉を使いにくいと感じたとき、そのビジョンには少なくとも既知の良さはないものの、かわりに未知の良さが眠っているかもしれないと考えられます。 / ここからわかることは、簡単に悪いと否定されてしまうビジョンほど、実は「未知の良さ」を含んでいる可能性が高いということです。 コンセプトのつくりかた 玉樹真一郎 69,70