バッテリィズ
https://youtu.be/r2OtrKD66MI?si=AFf_thFI-aqysOD5
バッテリィズ、ネタはどっちが書いてるんだ??って思ったけど、調べてみたら寺家が書いている。要するに、バッテリィズは寺家が想定する「アホの子」をエースが演じてるわけで、エースのアホ、バカを「そのまま」見せているわけではない。
というか、漫才=「二人(以上)の立ち話を即興に見せる話芸」である時点で、しこたまネタ合わせ=練習するし、いろんな舞台で同じネタを何度もやってる。つまりエースが舞台上でやっている「アホ」は当然のことながら、天然、素ではなく、あくまで演技である。M-1グランプリ2024のネタで言えば、エジソンもガリレオガリレイも、彼らがどんな人で何を言ったのかもエースは知ってるし、なぜそれがおもしろいのか=常識から外れているかを、つまり常識も理解しているし、もっと言えばそんな漫才のネタを覚えて人前でミスなく披露できるくらいには、つまり我々なんかよりもよっぽどエースは賢いのである。
それなのに、視聴者、お客さんはそんな「当然の大前提」も完全に忘れて、メイクビリーブでそうしているという意識すらなく、自然に「素のエースと寺家のアドリブ会話」を聞かせてもらっているような気持ちになる。これは相当な漫才の技術がないとできないし、「ネタの鮮度」がないと不可能だし、少しでも「演技である」というわざとらしさが見えてしまっただけで、笑いのインパクトが半減してしまう、相当リスキーなスタイルだ。
M-1の審査員からも「小難しい漫才が増えてくる中でワクワクするバカが現れた」(オードリー若林)「難しい漫才が多いなって中、たぶん難しいんでしょうけど、技術的には。ずっとこっちもヘラヘラ笑ってられるし」(海原ともこ)などというコメントがあった。確かに最近は大卒の高学歴芸人が多いし、ネタも構築されつくしたものが多いかもしれない。
が、そんなネタや芸人よりも、「目の前のバカが、演じられたバカではなく本当のバカだとわからせるために、本当のバカにはできない本当のバカの演技を、本当のバカが演じる」という矛盾を実現することで、見るほうはなーーんも難しいこと一切考えずにバカになってバカを楽しめるという、非常に構造的にめんどくさく、複雑なコンビがバッテリィズだ。どうしてそのようなことが可能なのか。
まず、ネタづくり。寺家がエースの天然の魅力、素材を完全に理解した上で、どうしたらそれが生きるのか、お客さんに通じるか。「素材そのもの」に見えるような、かつ「素材そのもの」が一番おいしく感じられるようなネタづくりに徹してる。
寺家のネタづくりが本当にうまい。エースが、舞台上で「エースの演技」をしなくても「エースの演技」になるように、エースが普段から思っていること、言いたいだろうことしかエースに言わせてない。その上で「社会通念上は常識とされているが考えてみたら明らかにおかしいこと」をエースに言わせる。それが最もカタルシスが大きいことがわかっている。なんせそんなネタばかりだから、エースの「鮮度」がすっごくいい。「臭み」がまったくない。
バッテリィズはコンビで見たらツッコミが寺家で、エースがボケだ。が、実際にはボケは「世界」で、エースはそんな世界に対するツッコミである(言われてみれば確かにヘン、おかしいのは世界のほうなのだ。「ライト兄弟」がライトじゃなくて飛行機をつくり、エジソンがエンジンじゃなくてライトをつくるて.....)。ツッコミをイライラさせながらも話がどんどん盛り上がっていくのが漫才の妙味だが、エースは世間という「ボケ」に対し、話が通じないのでどんどんイライラしていく。一方でツッコミの寺家は、「ボケ」としてのエースに話が伝わらないことにツッコミとしてイライラしていくのだが、こちらの「イライラ」はエースの「イライラ」と比べると、非常にジェントルでテンダーであり、この対比の妙が、ちょうどスイカに塩を軽くふるとますます甘く感じるのと同じでエースの「イライラ」を際立たせるし、対照的に寺家のツッコミをやさしく感じさせる。
バカやアホだから気楽に笑えると思ったら大間違いで、今はポリコレ、コンプライアンスが大変厳しい世の中だ。エースのアホをそのまま「アホやwww」で笑ったらこれはもう知性や知能が低い人たちや、学がない人たちへのれっきとした「差別」である。「アホだな〜」「アホやwww」と笑いながら、でもお客さんがポリコレやコンプライアンスを気にしなくていいのは、実は笑われてる対象はエースなのではなく、そんなアホのエースから「おかしいやろ!!」と本気でツッコミ入れられて、まさかぐうの音もでない「世界」だからだ。
かまいたち 山内もコメントしていたが、開始早々でそんなエースのキャラをお客さんにあっという間に理解させてしまうのもすごい。まずはエースの「あの」髪型、そして「エース」という名前がもうわかりやすい。それでもバッテリィズをはじめて見るお客さんにはそれだけではエースを「どう見ていいのか」がわからない。だからツカミで、エースのアホエピソードを寺家は必ず紹介する。
「四国の名前全部思い出すのに50分かかった」
「名前書くだけで受かる高校やのに名前書かずに落ちた」
「軽車両のことK車両やと思ってた」
この部分はアホなエースをアホを理由に笑っているのだが、ここは視聴者やお客さんに「エースをアホだと見てください」とわからせるために必要な部分であり、会場とのコンセンサスをつくるためにしている。が、これだけだとお客さんからのウケは微妙だ。エピソードがおもしろくないとか以前に「まだ笑っていいのかわからない」からだ。でも、ここでエースが「俺毎日楽しいぞ?」「楽しかったらええやろ別に!」などと言う。そこではじめてお客さんから安心の笑いが出る。「あ、そういうキャラなのね」となる。
あとはもう何を言ってもおもしろい。演技ではなくこの人はこれが素なんだと飲み込ませさえしてしまえば、お客さんは漫才が構造的に不可避に抱き込まなければいけない嘘(「今からアドリブの会話を見せます」)すら一切疑わなくなってしまうのだ。