その行為がもたらすはずの結果とその行為を回避することによってもたらされるはずの結果とのあいだに差異を見出すことができなくなってしまう
象の消滅を経験して以来、僕はよくそういう気持になる。何かをしてみようという気になっても、その行為がもたらすはずの結果とその行為を回避することによってもたらされるはずの結果とのあいだに差異を見出すことができなくなってしまうのだ。ときどきまわりの事物がその本来正当なバランスを失ってしまっているように、僕には感じられる。あるいはそれは僕の錯覚かもしれない。象の事件以来僕の内部で何かのバランスが崩れてしまって、それでいろんな外部の事物が僕の目に奇妙に映るのかもしれない。その責任はたぶん僕の方にあるのだろう。村上春樹. パン屋再襲撃 (Japanese Edition) (p.52). Kindle 版.
何を選んでも一緒じゃないか、と言ってるのだが、そう言ってるところが卑怯なんじゃなくて、そう言いつつそれを「失われた状態」としてブンガク的に切り取り直してくれるところが卑怯なんだよね。
直後に「本来正当なバランス」と書いてあるので「私は別にどちらも同じさって考えを肯定してるわけではありませんよ」というエクスキューズ付き。
そして「どっち選んでも差異なんかないじゃん」という断定すら避けているところ。
「僕の錯覚かもしれない」なので。そしてこれだけ無責任尽くしたくせに、その上で「その責任はたぶん僕の方にあるのだろう」と言ってまるで自分が責任感あるかのように言い訳するっていう。