お笑いをポリコレ【だけ】で語るのはなぜ問題か
お笑いにもポリコレは当然必要だし、その側面から【も】語る必要はあるが、ポリコレ「だけ」で語る人だらけで、それが見ていてイラっとする。 「おもしろいか」「どうおもしろいか」と「正しいか」「どう正しいか」はまったく別。なんなら四象限マトリクスにできるわけで、片方の軸についてしか語ってないのは分析対象が「お笑い」なのだから、まずおかしい。 そいつが単に自分におもしろいと思えないものに、だから他に語り方がわからず「正しい」「正しくない」のジャッジで済ませているだけ。そいつの無能を露呈しているだけ。
お笑いに限らないかもしれないが、ポリコレだけで語ると「いい」「ダメ」「どのようにダメか」までしか語れない。それ以上の深掘りができないため浅薄な意見になりがちだし、「ダメがどうして発生したか」とか「それでもダメじゃない部分はどのようにしてダメじゃなくしてきたか」とかどのような機能を持っているかというメカニズムの解析ができない。
ちゃんと言うと「そこ」をやるのが妥当なポリコレ分析だったりするのだが.....。
たとえば落語をポリコレだけで分析する人、本当に寒い。
落語なんだから舞台は江戸。ネタも当然差別的。なので「こんなに差別的」と言っても話は始まらない。逆でここでは「本来なら差別的で現代人の感覚にマッチなどするはずのない江戸時代をどのようにして、一定数の人がお金を払ってまで聞きたい!という話にしているか、その味付けの変更や、話の機序」こそを解明し、分析し、論じるべき。
本来ならもっともっと差別的な話を「そう」と感じさせないための工夫にこそ技術や知恵、工夫がある。そのメカニズムも分析できるほうが、出てきたアウトプットが百点じゃないときに「百点じゃない」と言うだけの「分析」より分析として優れていること、おもしろいことは明らか。
ポリコレでしか物事を語れない人は「正しさ」については理解しているが、「おもしろさ」については理解していない。だから作品について何か語れと言われると、「正しさ」だけを語ってしまう。自分が非常に心的に貧しい人間だと理解しておいてほしい。