映画『怪物』クィアめぐる批判と是枝裕和監督の応答 3時間半の対話
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大変いい記事だった。自分は怪物については是枝裕和にかなり同情的だと思う。それは映画がきちんとテーマを持ったもので、その内容も素晴らしかったから。そしてこの「炎上」時、評論は多いがどれも内容についてはほとんど触れてない、もしくは難癖に近いものばかりで、その多くは是枝のプロモーション時の発言や、「ネタバレ扱いした」というところにフォーカスしてばかりで、映画評論としては弱い、きちんと成り立ってないと感じた。その印象は今回の鼎談を見ても変わらなかった。 この鼎談を見るとSNSでの応酬がいかに不毛か痛感させられる。児玉美月や坪井里緒が書いたレビューや、それに対してこのようにきちんと時間をとって話を聴くことのほうが圧倒的に意味がある。発表当時から時間を置くことも大事だと思った。(伝わらないように伝えるの時間差で発表する参照) 【是枝】 ただし、自分としては、「LGBTQの映画ではない」とは一言も言っていない認識でした。 / 記者からの質問が「日本では性的少数者を扱った作品は少ないと思うが」という、当然この映画はLGBTQの映画である前提を踏まえた上で、テーマは他にもあると伝えるために、「特化していない」という言葉を使った。児玉さんの文章にあったように、いかに映像表象においてクィアが隠されてきたか、僕なりには学んでいたつもりでしたが、当事者の苦しみをもっと深く理解できていたら、記者会見に臨むにあたってもう少し適切な表現を選択できたと思います。 / 「特化していない」という否定的なニュアンスによって、当事者の方々に「また自分たちの存在を隠された」と感じさせてしまうかもしれない可能性があると、思い至るべきだった。「当然これはクィアの少年たちを描いた映画ですが」という前提をきちんと繰り返すとか、プロデューサーや配給側と詰めておくべきだったというのが一番の反省点です。 まず次回以降の作品や、今後の他の作品(映画以外でも)の事前説明のあり方、インタビュー時の対応として具体的な方法が反省としてあがってきているのがよかった。
【児玉】 映画を論じる上で物語のどこを伏せるのかも批評行為の一種だと思っているので、そもそも「ネタバレ」を送り手が指定すること自体にも疑問があります。 / 私は、第3章を伏せることがどうしてもクィア性を隠すことにつながってしまうと捉えました。発信側の意図がどうであれ、そうした広報のあり方が「クィアは伏せておくべきもの」だと社会に対してメッセージを伝えてしまえば、それは差別になる。これは差別の構造と類型の話なので、意図は関係なく結果的に対象が不利益を被ってしまうなら、やはり問題があるのではないかと。
【坪井】 登場人物や観客を含めた「マジョリティー側」が自分たちの加害性に気づけるのは子どもたちのクィア性が明らかになるからですし、クィア性が伏せられているというのは否定できない。
このロジックについては正直全然納得していない。「クィアは伏せておくべきもの」というときの「ふせておく」と、「映画のメッセージが効果的に伝わるように、重要なポイントについては情報を広報段階では伏せておく」というときの「ふせておく」が、言葉は同じだけで全然違うものをさしてるのでは??
あの映画見て「クィアは(社会に対してあなたのアイデンティティは)伏せておくべきもの」って読み取りされたらたまんないと思う。クィアだけでなく「ふせさせられてるもの」に「気づかない」ことの問題こそがテーマだったのはどっからどう見ても明らかだったから。(だからみんな映画にろくに触れてないことが大問題だと思う)
ネタバレを送り手が指定すること自体の是非については児玉の提言に一定の理があるとは思うが、映画の性質上、たとえば真犯人や大どんでん返しだったら指定するはずなので、そこまで一般化できる話でもないと思う。
【是枝】 クィアを「ネタバレ」扱いしていると捉えられてしまう文言はやめてほしいと映画会社には伝えていたんですが、チェックが遅れてしまった。確認したところ、児玉さんが観た段階ではそういう文言があり、宣伝担当者にもそうした発言があったかもしれないと聞きました。僕自身は第3章で隠されているのはクィア性ではなく「私たちの加害性」であり、それが再帰的に捉えられていくと認識している。「怪物とは私たちのことだったのだ」と分かっていくプロセスなので、そこは伏せたいと映画会社とも話していました。 是枝がこのように言っているわけで、クィアではなく「加害性に対する気づき」を狙い通りにするために、情報公開に一定の配慮を要求するのは制作側としてしごく理に適ったことだと思う。
【児玉】 クィア映画には固有の歴史や文脈があるので、それをやろうとした時に、既存のスタンスが汎用(はんよう)できないことはあると思います。是枝さんが自分はマジョリティーだからクィアの立場で何かを代弁するのは傲慢(ごうまん)だと考えているのは分かりますが、その誠実さとしての一線を維持したまま、これは性的マイノリティーのあなたたちの物語なんだ、と言うことはできる。これまでマジョリティーを自認する作家たちはあまりにも、「あなたたちの物語」ではなく「みんなの物語」だと言い過ぎてきたように思います。
ずっと引っかかってることがあって。それはこの映画、監督が「これはクィア映画だ」と言ったらそれはそれで嫌がられていた、クィアの簒奪だと言われていたのでは?ということ。「マジョリティが勝手にクィア映画だと認定するな」とか言われてそうだし、「クィアだけがテーマでない映画までそう言って流行りにのっかるな」とか。
口ではみな「なぜクィア映画だとはっきり言わないのか」と言っていたが、根底で「これをクィア映画と認めたくない」という気持ちを持っている。そう感じて仕方なかった。
実際、少なくない当事者が映画プロモーションの問題とは別に「これは私たちの映画ではない」と表明もしていた。「マイノリティーの方たちは一番観てほしいと思っている人たちでもあるのに、その彼らに「自分たちの映画ではない」と思われてしまうのであれば、僕のスタンスが違うんだと思う。」と是枝もここで言っている通り。
というのも『怪物』という映画のテーマ自体が、クィアネスだけにあるわけではなく、むしろそれはドラマ展開の一つでしかないから。クィア当事者も作中でとんでもない加害を意図なくしてしまう。そういう脚本だったから。
実際私は「クィアもテーマだけど、それだけじゃない」という是枝のスタンス通りの作品だったと思う。作品で描きたいことは作り手によってフォーカス違うのは当たり前。この作品「では」クィア含む「お互いが見えないこと」をテーマにしていたと思う。
クィアを出しただけでそれはクィアの映画でなければならないというのは過剰な要求だと思うし、当事者もそれを望んでいるようにはどうも自分には思えない。映画自体は見ればわかるが、クィアをギミックになど使っていない。ドラマをつくるときに脚本はロジックを積み重ねるしかないが、そのロジックの積み重ねが「ギミック」と等値なら、ドラマをつくれない。だから単にドラマのロジックになってることをもって「ギミック」と呼んではならない。是枝の作品はクィアをギミック扱いしてはいなかったと思う。そこには作品展開上の必然がきちんとあり、マジョリティの傲慢を打つ視点があった。これを単に「実はマイノリティでした」でお涙頂戴するギミックと等値するのは、あまりにも作品の質を無視する暴論だと言わざるをえない。
作品のテーマは「わたしたちの加害性」。ここでクィアを一切入れなければ「また我々を透明な存在として扱うのか」と言われるはず。かといってとりあげれば「ギミックにするな」「クィアを他の属性と並列するな」と言われてそう。
【児玉】今回は一般論として伝わってしまったことに問題があったと思いますが、そもそも色々な考え方があるので、複数の団体に聞くことも重要だと思います。
【是枝】 プロデューサーと相談しながら、いくつかの候補を挙げていただき、実際に来ていただいたのは1団体になりました。最初に『怪物』のプロットを受け取った時、これはちゃんと勉強しないと描いてはいけないと思ったので、まず専門家の話を聞こうと。LGBTQの子どもたちを中心に支援している団体の方に来てもらって、演じる子どもたちやスタッフに性的マイノリティーについての講習をしてもらいました。
複数の団体に聴くべきだというのは確かにそう。
でも、だとすると是枝以外のクィア映画でも複数団体にチェックを入れてもらっているのか、チェックする必要がある。たとえば鈴木亮平主演の映画『エゴイスト』なども同じことしてるのか?とか。 【坪井】 湊の隣の席のクラスメート・美青のエピソードが本編ではカットされていましたね。 / 脚本では美青はBL作品を好んでみている子として描かれ、湊と依里の親密さを自らのなかで勝手に恋愛関係だと決めつけて「応援してるの」という言葉をかける。「カミングアウト」(自分のアイデンティティーや慕情などの属性を開示すること)という言葉を使用して、湊たちに対し自分の決めつけた慕情の開示を迫るシーンまで書かれていました。 / あれはまさに特定のクィアに対して、その者の属性を勝手に推測して当てはめるという暴力、実際に存在するクィアを自分の快楽のために相手に分かる形で同意なく消費する暴力、カミングアウトという個にとって生存に関わる重要な事柄を勝手に暴露する「アウティング」(当事者が同意していないのにもかかわらず、アイデンティティーや慕情などを第三者が暴露すること)、という三つの暴力。クィアを消費するマジョリティーへの批判のように読めました。美青の話を入れ込むべきだったのではという声は、クィアコミュニティーからも多かった。
ここから内容に踏み込んだ話になる。こういう話がもっと出てきてほしかった。
映画館で見たとき、この「美青」は画面にちらとうつってるだけで、ほとんど本編に絡んできていなかった。私はそれを「すべてを知っている神視点=監督からもすべてが見えていない」、捉えきれていない残余の存在をマークするものとして、監督があえて画面の中に残したのだと肯定的に評価していた。
実際是枝に対し「どこか神視点で偉そう」という評価を友人たちから聞いたので、この「うつってないものがある」ことをうつす姿勢にも是枝の誠実さを感じた。
【是枝】 正直なところ、その描写自体が言い訳に見えてしまったんです。こういう目配せも作り手はしているんだという匂いが撮りながらしてしまって、ない方がいいと判断しました。
やっぱり、という感じ。自分の印象と差異はない。監督の判断通り、これまで入れていたらかなりいやらしくなっていたと思う。美青のエピソードを入れなくても、マジョリティによる暴力性は十分伝わっていると思う。
阪元裕二の脚本もよく「誘導的」などと言われるが、完璧なものにすると「完璧すぎて誘導的」「他の意見を許さない」と言われるが、不完全な部分があると「完璧ではない」と言われるっていう。不条理だけど、仕方ない。是枝や阪元だけでなく全員に同じこと言ってくれって思う。(別に是枝らのファンというわけではないのだけど、公平性がないことが気持ち悪い) 【坪井】 「怪物たち」だと印象が違いますね。マジョリティーに対する比喩だと伝わります。とはいえ、本当の怪物はマジョリティー側なのだという制作陣の意図が観客に適切に伝わったとしても、「怪物」という存在に有害性を押し込めてしまい、差別という構造の問題を個人に集結してしまっているように読めるという問題点は残りますね。
あまりにもマジョリティ/マイノリティという構造を実体化固定化しすぎていると思う。(そう言う構造があり、それがクィアにとってダメージだということを否定しているのではない)
むしろ差別という構造の話しかしてなかったと思うのだけど......。構造化されているため、本人にその意思や意図がなくてもアグレッションになってしまう、そういう構造ばっかり描いていたと思うんだけど.....。
ここもクィア当事者による加害性を評論としてボカしてしまっている。作中、クィア当事者の言動のせいで、他のマイノリティ(おそらくはニューロティピカルでない人たち)がとんでもない苦しみに突き落とされる。なのに、そこが無視されてる。どこまでも自分たちは怪物ではない、怪物なのにはあちら側だけなのだと言おうとしているのが、自分にはとても引っかかる。
それこそ、ある一つの属性においてマイノリティの人間が、他方ではマジョリティになること、マイノリティ属性があったとしてもその影響の置かれ方は他の属性とのインターセクショナルなあり方で変わってくることが重要なのに。
【坪井】 もう一つ、虐待を受けた依里を風呂から助け出した湊が力尽きて倒れた後、校長が倒れている2人を見つけて介抱し、ぬれた服を着がえさせてあげるシーンもカットされていましたね。(......)大人たちによる差別と暴力により死にかけていた2人にあたたかい服を着せてあげて、彼らが自由に走っていけるように送り出すというシナリオにどうしても意義を感じてしまいます。 / それまで本編に出てきた大人たちは皆彼らを「傷つける側」だったけれども、明確に2人のために動いて実際にケアをしてくれる大人が出てきたのが重要だったなと。音楽室のシーンはあくまで湊と校長2人だけのシーンだったというのもあって。
意義は感じるし、是枝も感じてるだろうけど、入れるかどうかだよね。
瑛太が演じる先生が最後に走って二人を助けにいこうとするし、「間違ってない!」と全肯定するところがあって。明確に二人のために動いてくれる大人が他に出てこないわけじゃない。
【坪井】 映画の結末の後も登場人物たちの人生が続いていくように感じさせるのと、映画としての結末の解釈に幅を持たせるのは意味が違うのではないでしょうか。 / 前者は私も好きですが、後者は観客に結末を投げているように感じられるし、視点が高いなと思ってしまいます。「最後どうなったのかは皆さんが判断してくださいね」って言っているそっちは、じゃあどこに立っているんですか、本当に結末を決めましたか、って思ってしまいます。
【是枝】 それも最近よく言われるようになりましたね。しょせん、他人事(ひとごと)なのか、と。 / 物語が終わった後に観た人が、あの人たちは明日どうやって生きていくんだろうと想像してもらえるような終わり方を、これまでずっと変わらず考えてきた。でも、昔は言われなかったことを随分言われるようになって、オープンエンディングはこの時代にはそう受け取られるんだなと思っています。
これもだってはっきり二人が生きてハッピーになってるシーン描いたら、「現実は違うのに、マジョリティが映画館で感動してあとはさっぱり忘れるために使い捨ててる」って批判ができるし、実際そうなると思う。
かといって死んでもそれはそれで「はあ?」なわけで。
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【視点】お三方の鼎談の中で、「クィア」「当事者」という言葉がよく出てくるが、当然ながらクィアの当事者でも全く一枚岩ではなく、見る角度や目線はそれぞれ大きく異なるという点は指摘しておかなければならない。
私はいわゆるクィアの当事者の一人ではあるが、記事中の「当事者たちからの批判の声」とは全く違った感想を抱いている。
私は、この「怪物」という作品から、他の映画や作品では到底感じたことがないほどの深い慰めを受け、勇気を受け取った。 / あまり予備知識なく初めてこの「怪物」を映画館で観て、大きな衝撃を受けたのは、昨年の夏。 / それから残業の合間に幾度もレイトショーで深夜の映画館に足を運び、その度に打ちのめされ、そして不思議な勇気と自信を得て帰る、という経験を繰り返した。 / この作品は、確かにクィアの登場人物たちを描いている。 / だが、決して「クィア」や「LGBT」という明確な切り口から描いてはいないし、むしろ「普遍的な物語」として描きつつ、しかし当事者たちを取り巻く状況についての勘所は押さえた上で描かれていた。 / だからこそ、クィアの当事者である私に刺さったのだ。
「当事者」である仲岡しゅん氏による記事へのコメントも重要。 私は児玉や坪井のセクシャリティやアイデンティティについて何も知らないから、児玉や坪井が「当事者ではない」とまで言うつもりはないが、当事者であったら言ってることは何でも聞き入れなければならないとしてしまうと、他の当事者の声までつぶしてしまう。沈黙させられがちな当事者の声にマジョリティは真摯に耳を傾けるべきだというのはその通りなのだが、それは当事者の不可謬性を決して意味しない。
むしろ文字通り過度な当事者尊重が現在のトランスジェンダー差別を産んでいる側面だってある。女性というマイノリティ当事者の意見に耳を傾ければ、トランスジェンダーを女性と認識してはならないということにさえなってしまうから。 この記事を読んでも私の映画に対する感想は変わらない。仲岡が言うように、ラストシーンはあれでよかったし、あれが「オープンエンド」だとも思わなかった。そう思う人やバッドエンドだと解釈する人がいるのはそうかもしれないが、是枝も言うようにほぼ誤読の域だろう。
また、脚本にはあったが映画では削ったシーンも、映画の本筋を通すためだとすると適切な選択だったと言わざるをえない。BL好き女子・美青をほとんど話に絡ませなかったのも、是枝なりの映画倫理がそこにあり、しっかり筋を通してると思う。その可能性について、坪井や児玉は気付けてないのではないか。
それこそ記事にする上ではしょらざるをえなかったのかもしれないが、指摘や批判を受け入れ、次作に活かしていく姿勢を見せる是枝に対し、坪井や児玉が是枝からの問題提起によって自己を変えていった形跡も記事だけからは知ることはできなかった。