2023/09/15
この日(明日)はcman.iconの誕生日です。
誕生日のことを、合法的に人に反応をねだっても良い日だと認識しています。 各自、これをみたひとはどこかでぼくのプロジェクトやそのページや創作や人格などについて見えるように反応してください。
ぼくは「cmang1dovob」でエゴサをします。ScrapboxでもTwitterでもこれを入れておけばぼくが見れるはずです。
……でもそれ入れられるのも恥ずかしいな。人格などに触れる場合はDiscordのDMとかそういうクローズドななにかでやってほしいな。恥ずかしいから。
もちろん見なかったことにしても良いです。あなたには自由がある。
なぜこのようなページが出来たかというと、最近(2023/09)いそがしすぎるうえに色んなことを考えててメンタルが限界だからです。
ほんとうはぼくだってこんなこと書いておきたくないけどさ…………たまには承認欲求をむき出しにしてもいいじゃん……誕生日だし………
去年の誕生日はウキウキでTwitterに「たんじょうび!!」って書いてみんなからおめでとうを強奪し、うれしくなって短歌を読んだ
冷静に考えるとわけがわからんな
人の多いところでやらないくらいの正気はまだあるが、こっちのほうがヒキョウでは?という感じがありますね
/icons/hr.icon
ここからはもらったものを噛みしめるためのスペース
9/15内に確認した、自分への言及も含める
きみたちを宝箱の中に入れてやりどんぐりみたいに大切にする
祝
ありがたき幸せ……人間が祝してくれている……
DiscordDM
DMで祝われるの、気恥ずかしくてんぬぇ……って感じになりますね
Twitter
鍵のほうで複数人から祝いのメッセージをもらった。すてきなことだ……
基本的に祝いのメッセージに「ありがとうございます!」って返すの、本当に苦手なので、いいねだけして無視みたいになっちゃうんだけど、ほんとうによろこんでいます
メッセージから起こったであろう(祝混じりの)言及
Privateなので参加者以外に見えません
ありがたい。やはり日記(思考ログ)の更新はやっていくほうがいいなと思う
最近の頭のモヤのかかりかたは日記を書いてないことにもあるかもなぁ。
takkerさんとこから言及があると思ってなかったのでワーイという感じでした
日々Scrapboxの周遊はしているのだけど、/takkerは「あとでかく」および「あとで井戸端に書くやつ」、カウンセリング/振り返りあたりを読んでいる。
理系の項目は頭に入らないというところももちろんあるんだけど、ぼくは人間が日々悩みながら何かを行っているのが好きというよくない嗜癖を持っているので、それを満たしているのである
cman.iconは情報的ページよりエッセイ的ページ、日記的ページの方をみる傾向がある
ぼくは人に甘えるとか頼るとかいうのが極端に下手な(てかやりたくない)ので、多分ここにある「ねだる」という感覚は「甘え」とリンクしたものだとは思う
自分で自分にかけている呪いみたいな制限を解除するための口実として、「今日は特別だから」というのを使っている
で、今回はそれを利用しながら、自己概念と自己の生成物についてのフィードバックを得て、指針の確立と概念の修正をしよう、という行いでしたね
こっそりとちゃんとwatchに入れてるのでちゃんと見れた やったぁ。
ぼくも久住さんとはなすのすきですよ!!!!!
これは本当のことなんですけど、この流れでこの反応を返すと欺瞞(上辺のもの、社交辞令)っぽいな……
そういうことを考えてるからコミュニケーションが下手になるんだよ
話の進め方にはわりと個々人によってパターンがあると思っていて、ひとつを深掘りするようなスタイルがわりと似ているのかなぁというところはありそう。
その点でプレイスタイルの一致があるんだろうなと思う
あと単純に、久住さんの話のテンポが好きなんだよな。
忙しさはあるんですが、きほんてきに100万円降ってくれば解決するタイプのストレスなのでまぁまぁ、という感じ。問題は100万円降ってこないことかな。
管理人業務はどうだろう。タスクとして勝手に抱えてて、ウーン、と思っていることはいくつかあるけど、まぁそんなに苦ではないかなぁ。
トラブルになりそうだなぁ、とかを杞憂するときはあるけど、一番つらいのは、現実が忙しいので、パズルを解けないことかもしれない。
あるんだ。へ~。(納得と発見)
やった!!!!!!!!短歌を読んでくれてるぞ!!!!!
自由題が多いのは、もともと短歌を百首作ってみようは「題から広げて短歌を作る」というページだったんですが、ある程度やったところで「いや、わざわざ言葉で題を探さずとも生きてると短歌が出来るな」となり、生きててできた短歌はすべて自由題のところにつっこんでメモしてるからですね なんか空白の歌が刺さっててわらっちゃった すいません
わかられることがない、という前提の中で行われる伝えるための、わかるための営みみたいな、なんかそういうのを普段は思っているんですけど、これを詠んだときは創作ができないストレスとヘラヘラしながら人と会話している自分のズレにものすごいキレてたときでしょうね
やはり読みというか、幻視がうまいな……(それ褒め言葉か?)
基本的にぼくは作者の意図とか関係ないから好きに読んでくれ派なのでにこにこしながら頷くのみです
たそがれの
「歩ける」はいちおう、「歩くことが出来る」で書いてはいます。用法とか何もわからんので「歩いている」でも読めると思うし読んでいいと思いますが
「一人」にするか「ひとり」にするかで悩んだ記憶がある。
再生回数1回の曲
これはわりと他の人のリアクションもよかったきがする。なので結構きにいりはある。
ただ、じつはこれ「生きている/ことが歌とかに/なればいいのに/再生回数/1回の曲」という韻律になってて、上の句はすごく音が余計になってるんだよな。特に第三句が明確に7で余っている。
書いたときの記憶がないのでこの7がどのような効果を持っているのかわからないんだけど、わりと評判がいいということは何かがある気がするのだよな……(わからない)
上の句と下の句の取り合わせ?何?わからんけど響き合い?余白みたいなのは結構よくできてるきもする
ひとりひとりが窒息していく
幻視、おもしろい。確かに単体で見るとすごく怖い情景も浮かぶ歌だ。
解釈はそのままにしてほしいなぁという気持ちと補足情報をいれようかなという気持ちの同居
なので、詠んだときに題として使った映像は「カラオケでオールしているときに、最初はみんな曲をいれて歌っていたが、どんどん眠気でテンションが下がってひとりずつ黙って眠りに落ちてゆく」という映像であった。
ただ、幻視映像と詠んだときの感覚はマッチしているので、詠めているんだな、ヨシ!という気持ちになった。
歌と窒息の取り合わせは(たぶん)わりと意識して選んでいるので言及されて嬉しかった
感想に感想を返してると、「短歌を詠んだときの記憶なさすぎる」ということがわかる。歌会用の悩んで書いたやつ以外生活と感覚で出来てるところがあるもんな……
季節と向き合って書いているときはわりと、向き合ってうかんできた、この大きな感情を、言葉をつかってまわりを囲って閉じ込めるにはどうしたらいいだろう、みたいなモチベーションでやってるきがするので、そのへんが希求ポイントなのかも。
隔絶された園 内包されたすべての夏 あなたはひとりでしょうか?
このへんは夏に巨大感情を抱えて「もう誰もわかんなくていいからとじこめなきゃ」って書いたやつ
「もう誰もわかんなくていいから」って言うってことは、普段はこれをわからせようとしているんですね。なるほどな~
書いてる最中に言及が発生して増えていくのオモロい
これがいちばんサプライズでした!!!!!マジ!?!??!え……ありがとうございます。マジ???
ぼくはぼくの書いたすべてのものが面識がなかったり関わりがなかったりする人のもとに届くと思っていない(にも関わらず「みんなに読んでほしい」と思っている)のでめちゃめちゃその……ふふ……
つまりぼくはぼくのことを発信者だとあんまり思っていないんだよな 片隅にあるものをウォッチしてくれてありがとうございます
感想への感想が下手なのでひとつひとつ噛み締めている
お前上の方で書いてたじゃん、と言われるかもしれませんが、実はあれは感想の感想を言っているのではなく、感想をインプットして自分の出来る話をしているだけです
でもやっぱ、あれですよね 世界と言葉と理不尽(不道理)への怒りだよな(??)
しまんしの世界観ってそういうので駆動されてるし構成されているもんな
そうか?
でも中枢として大事だなぁということを再認識できる……
で、言及があったから、というのもそうだけど、中枢なのだから、もっと深掘りしていきたいなぁというところはある
いや、怒りのところはあんまり深掘りすると不健康になるんでアレなんですけども。
そう、まだまとまっていないところではあるけど、「あたりまえのことに気づく」とか「あるはずのところを指差す」みたいなところなのかもしれないなぁ、とこれを読んで思った
やっぱり感性と論理で行き来する感じに見えるんだなぁ、という確認
このへんのコントロールをもっと上手く出来るようになりたい、という思いと、「こうやってウロウロしてる自分も結構すき」というのがあるので、一生ぼくには両極性があるままでいきてゆくのかもしれない その日の言及(バックリンク)
短歌の鑑賞方法とか作り方とかはたぶん『短歌という爆弾』(穂村弘)と『天才による凡人のための短歌教室』(木下龍也)を読めばだいたいイケる気がします 短歌という爆弾は途中までしか読んでないし、天凡は読んだことないが……
それプラスで、日本語だと後のほうにある文章のほうを重視する、という点があげられる
短歌でいうと、先に「踊って暑くて服を脱ぐ」が来た場合、その情景が浮かんだあとに、「外は吹雪」が認識される
外は吹雪→踊って暑くて服を脱ぐの順番とは印象がちょっと変わる
うーん。何が違うのかイマイチ上手く説明できないが、服を脱ぐ→外は吹雪のほうが意外性があるから短歌向き、という感じなのかな。
あと、外界から隔絶されてる感が踊り→吹雪のほうが高い気がする
吹雪→踊りだと、「吹雪で出れないから踊っちゃう」みたいな読みもされかねない
最初に踊りを描写すると、吹雪との無関係さが強調される気がする。
最初の認識が「踊っている人」で、それは外とは無関係に存在しているから。その状態で外が吹雪であることが足されるので、「踊ってるにも関わらず外は吹雪」という構造になり云々
細かすぎて伝わらない文章の話、無限に出来る
「二点であることが認識出来る距離がより小さい」ということは、触覚が鋭敏であるということに置き換えられる。
キスと二点弁別閾を書いたときは、「キスをするとき、互いの唇の溝まで把握できるほどに、どこに触れているのかわかるのかもしれないな」みたいなことを思ってたんだと思う その「互いの深い触覚的把握」というのがロマンティックさに繋がっているのだろうということを、ざっとスキップしてメモったのが当該ページになる。
え?あらためて考えると、このへんを完全にスキップしたのに書き出されてるのすご!
これを考えてると、「指先で撫でる」みたいなものの官能性とかロマンティックさみたいなのも繋がってくる
「寝ている子の毛先を指先で梳くように撫でる」みたいな描写がぼくは好きなのだが、この構図と触覚がリンクしている
寝ている子は、行為のことや相手のことを把握できない≒髪の毛自体に触覚はない
しかし気づく可能性はある。(≒髪の毛を触られたことには触覚として気付ける)
撫でている子は、この行為も把握しているし、相手のことを深く把握したいと思っている≒指先は触覚が鋭敏である
より深く考えると、この構図になったとき、「撫でる側が寝てる側に片想いをしている」という解釈が生まれるのは、こういう対応関係もひとつあるのかもと思う
触覚による把握と関係性の構図はもうちょっと深掘りしていけるかもなぁ
「とにかくやった方がいい」に全然向いてない人がおり、そういう人は「なんでこれをやるんですか?」というのを聞かないと無理なことがある。
創作とか技術におけるcman.iconはわりとそのタイプ
なので元記事の「計画を立てないと」はめちゃくちゃ理解が出来る。
このプレイスタイルを取る場合、cman.iconなら「これを作るのにどのような機能が必要なのか」を書き出して、「それはどのように実現されるのか」を勉強して(またその勉強の計画を立てて遂行して)からやっと手を付け始めるから
じつはこういうのがあるので「この人は一生やらないんだろうな」にちょっと心をえぐられたりもしている……
そのモチベをどう担保するか
このへんは習慣化になると思うなぁ。学習心理学的な感じからいくと多分最初は報酬を与えてオペラント条件づけ的に行動を増大させて、ちょっとずつ習慣にずらしていくみたいな感じがいいのか? ※立ち歩きのひどい小学生にトークンエコノミー法を用いて着席を促し、改善させていく話を聞いたことがある
ぜんぜん関係ないんだけど、この「誕生日には言及せずこの日にこのプロジェクト内に言及している」にくつもふさんとstaさんが並んでるの、何かしらの共通性が感じられてふふってなる
すっげ~長くなって草。あとで切り出すかも。
みなさんありがとうございました