冬の夜ひとりの旅人が
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書誌情報
原題 : Se Una Notte D'Inverno Un Viaggiatore
発表年 : 1979年
目次
第一章
「冬の夜ひとりの旅人が」
第二章
「マルブルクの住居の外で」
第三章
「切り立つ崖から身を乗り出して」
第四章
「風も目眩も恐れずに」
第五章
「影の立ちこめた下を覗けば」
第六章
「絡みあう線の網目に」
第七章
「もつれあう線の網目に」
第八章
「月光に輝く散り敷ける落葉の上に」
第九章
「うつろな穴のまわりに」
第十章
「いかなる物語がそこに結末を迎えるか?」
第十一章
第十二章
内容
読書人小説としてとりあげられることが多いが、本当はもっと多くのものを含んだカルヴィーノ最後の長篇だ。
あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読みはじめようとしている。という世にも名高い書き出しによって、読者(〈男性読者〉)を主人公とした二人称小説としてはじまる。
考えてみれば、これってものすごくあざといやり方だ。ロマネスクな期待を誘い、無際限に広い解釈の可能性のために心を準備させるという書き出しの機能を最大限に発揮させるために、それも書き出しそのものを一つの大きな問題として掲げたこの作品の中で、あえてこんな一文を選ぶということなんだから。
「『あの』カルヴィーノが書くのだから、きっと吟味されぬかれた企みと自由がこの先にはあるに違いない」という期待を誘発し、想像力の準備をしておくようにと読者へ訴えかけるのに一番いいやり方は、単にわたしの新作ですよと強調することだという判断が下されたのだろうか? 途方もない自負と勇気がなければできないことなんじゃないか。
新しい小説、ヌーヴォー・ロマン。という含みも持たせているのではという説もどこかで読んだ。
架空の小説の冒頭部分だけが繰り返される。その先はない。物語の枠組みだけがいくつも用意されていて、さあこれを満たしてごらんなさいとでも言いたげな小説だ。
その先に手に入るものは何ひとつないということが次第に明らかになるのに、カルヴィーノ一流の「速さ」と「遅さ」のテクニックだけで、すらすらと読み進めることができてしまう。 この作品の中でカルヴィーノは、〈女性読者〉ルドミッラという、理想的な読み手を発明する。彼女は実質的にすべての章で「私の読みたい本は……」と語り出すのだが、その後に続く内容は章を移るたびにころころと変わってしまう。
贋作者エルメス・マラーナとルドミッラの関係は、『見えない都市』でのフビライハンとマルコポーロの対置と相同(ニヒリズムをすんでのところで否定する軽さへの期待)だが、マルコポーロが語り手であるのに対してルドミッラは読者だ。この違いに私たちは、カルヴィーノが期待を寄せる対象の変化を見てとることができる。 2019年3月に行った読書会で出た質問として、イタリア語だと「男性読者」と「女性読者」は接尾辞だけで区別されるのでは?(日本語だとかえって男女の区別を強調しているように見える)というのがあった。
これはなかば正解で、イタリア語では男性読者(il lettore)、女性読者(la lettrice)になるらしい(『ユリイカ』1985年9月号所収、ステファーノ・ターニ「イタロ・カルヴィーノは殺しのテクスト」高山宏訳)。 「読者」をあらわす lettore がもともと男性名詞で、語尾を変化させることで女性名詞に変化させることもできる(エンペラーに対するエンプレスみたいなこと)みたい。
カルヴィーノ作品はなんだか男性中心的だという意見もあって(『ユリイカ』1985年9月号所収、河島英昭「カルヴィーノ文学の原点」)確かに言われてみれば本作でのルドミッラの描かれ方も、読書人にとっての理想像、はたまた手をすりぬけ続けるトロフィーみたいにも見える。だけど彼女が内面のお粗末な張りぼてかというとけしてそういうことはないし、自立した人格を認めることもまたたやすい。