コンヴィヴィアリティのための道具
イリイチも『コンヴィヴィアリティのための道具』の中で、人間と道具の間にはそのような相反する関係があることを指摘し、まずはそのことを認識することが重要だと主張する*3。
〔道具には〕ふたつの相反する利用のしかたがあることを認識するだけでいいのだ。ひとつのやりかたは、機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし、人々を官僚制と機械の付属物に変えてしまう。もうひとつのやりかたは、それぞれの人間の能力と管理と自発性の範囲を拡大する。
では、その相反する二つの道具、人間の自発的な能力や創造性を高めてくれるコンヴィヴィアルな道具と、人間から主体性を奪い隷属させてしまう支配的な道具を分けるものはいったい何なのだろうか。イリイチは、そこで「二つの分水嶺」という考え方を持ち出す。
道具にあるパラメータがある時、それがある閾値を超えると生産になるが、もう一つの閾値を超えると逆生産的になる、という話
はじめに・二つの分水嶺
資本主義とか共産主義とかとは異なるレイヤーの話
「道具」を個人が保有しようが会社が保有しようが国家が保有しようが起こりうる問題を扱っている?
医療の例があるが、さまざまな道具・テクノロジー・産業的なもので同じことがいえる
要素
制度・専門家による官僚制
「数を増やして規模を大きくすれば効用が増す」みたいな単調増加、線形性を前提とするモデルを批判している?
初見の感想としては「そう言われればそう」blu3mo.icon
もう少しcriticalに考えたい
観察できる現象としてはそうだなと思うが、今の時点では背後の仕組みが全然りかいできていないblu3mo.icon
なるほどblu3mo.icon
普遍性高そうな解釈
分水嶺のポイントはどんなパラメーターによって規定される?