コンヴィヴィアルテクノロジー
「道具が人間に隷属する」状況よくないよね、と
実際それはどういう事なんだろう?
人Aが道具を使って人Bを隷属させる時、それは別に「道具が人間に隷属する」ではない
誰(どの人間)の意思でもないのに何かの制約が発生している状況、みたいな感じで言い換えられそう
資本主義で困る人がいる、みたいな自然に出来上がったシステムの制約の話とか
しかし一方で、そこで描かれているような、人間がテクノロジーを意識することなく自然に使いこなせる世界は、裏を返せばテクノロジーがブラックボックス化され、さらに言えばブラックボックス化されていることにさえ気づかない世界にもつながりかねない。そこには先ほど述べたような、知らず知らずのうちに再びテクノロジーに隷属させられてしまう状況を生み出す危うさも潜んではいないだろうか。
使う主体性と作る主体性
どっちも失われているよねと
イリイチも『コンヴィヴィアリティのための道具』の中で、人間と道具の間にはそのような相反する関係があることを指摘し、まずはそのことを認識することが重要だと主張する*3。
〔道具には〕ふたつの相反する利用のしかたがあることを認識するだけでいいのだ。ひとつのやりかたは、機能の専門化と価値の制度化と権力の集中をもたらし、人々を官僚制と機械の付属物に変えてしまう。もうひとつのやりかたは、それぞれの人間の能力と管理と自発性の範囲を拡大する。
では、その相反する二つの道具、人間の自発的な能力や創造性を高めてくれるコンヴィヴィアルな道具と、人間から主体性を奪い隷属させてしまう支配的な道具を分けるものはいったい何なのだろうか。イリイチは、そこで「二つの分水嶺」という考え方を持ち出す。
道具にあるパラメータがある時、それがある閾値を超えると生産になるが、もう一つの閾値を超えると逆生産的になる、という話