私、一人称、自己意識の哲学
永井均
自己意識
カプラン
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に出てくる「これはパイプではない」、二次元意味論を使えば解決しそう
この文は斜体で書かれている
この文は斜体で書かれている
This sentence is written in English
この文は英語で書かれている
モンタギュー、カプラン
だが,この意味論には誤謬が含まれている.つぎの2つの文の真偽を考えてみよう.
(17)私はいまここにいる.
(19) □ 私はいまここにいる.
直観的に考えて,(17)は正しく,(19)は正しくないと思われる.(17)は「私」「いま」「ここ」という語の意味から考えて,論理的真理である.ところが(19)は端的に偽である.私がいまここにいることにはなんの必然性もないからである.
よって,指標的表現の意味論の満たすべき条件として,つぎの2つを要求するのはまったく妥当であろう.
その理論から(17)が真であることが帰結すること.
(19)が真であることはその理論から帰結しないこと.
しかしモンタギューの理論はこの条件を満たしえない.モンタギューの理論では,(17)がそのもとで偽となるような指標 ( w, t, p, a)は無数にあるので,(17)を論理的真理とすることができない.指標を制限すれば(17)を論理的真理とすることができるが,そうすると今度は(19)までもが論理的真理であるということになってしまい,いずれにしても駄目である.
White Queen Psychology and Other Essays for AliceのCh. 13
Herman Cappelen, Josh Dever *The Inessential Indexical: On the Philosophical Insignificance of Perspective and the First Person (Context and Content)*
「私」と、名前との置き換え不可能性は、フレーゲのパズルの一種でしかないと主張している模様。
むしろ、逆にフレーゲのパズルを指標的内容の例と考えることはできないか(パトナムの意味の意味?)
It is often held that a characteristic feature of some self-conscious thoughts, that is, thoughts with first-person content or 'I'-thoughts, is their immunity to error through misidentification relative to the first-person pronoun. The claim is that when thinking or expressing certain 'I'-thoughts, the subject can be mistaken with respect to the property that is being self-ascribed, but not with respect to the subject of the self-ascription. For example, when I judge on the basis of my experience that I have a toothache, I cannot be mistaken with respect to the point that it is really me who has the toothache. Many authors think that an understanding of immunity to error through misidentification is essential for a theory of self-consciousness and self-knowledge. However, there are many open questions with respect to, for instance, different varieties of immunity to error through misidentification, the distinction between logical and contingent immunity, the relation between judgments containing the first-person pronoun and those containing indexical and demonstrative terms, and alleged empirical counter-examples to the immunity principle.
私が頭痛だ、私の足がクロスしている(身体感覚によって知られる場合)、というのは、他人が頭痛だ、他の足がクロスしている、というのと間違うことがない
ジョン・ペリー
遂行的矛盾
ハンス・ライヘンバッハ (token-reflexitivity)
本稿の⽬的は、C. J. ヘアが、著書 On Myself, and Other, Less Important Subjects で展開した「⾃⼰中⼼的現前主義」という⽴場の紹介、及びその検討である。ヘアは我々がもつ選好についての⾃⼰バイアスを説明するため、私の知覚対象・感覚経験のみが「現前する」という単項的性質をもつ、というある種の独我論的⽴場を主張する。第⼀節では、⾃⼰バイアスに関する問題を提⽰をする。第⼆節では、⾃⼰中⼼的現前主義の説明する。第三節では、⾃⼰中⼼的現前主義が⾃⼰バイアスに関わる問題を解決することを⽰す。
On Myself, and Other, Less Important Subjects (2009) ってタイトル、かっこいい
Benj Hellie's vertiginous question is as follows: of all the subjects of experience out there, why is this one—the one corresponding to the human being referred to as Benj Hellie—the one whose experiences are live? (The reader is supposed to substitute their own case for Hellie's.)
The Naïve Conception of Communication rests on the idea that communication is the replication of thoughts : the thought the hearer entertains when he understands what the speaker is saying is the very thought which the speaker expressed. But in the indexical case,there is no replication, but some kind of systematic transformation.
指標詞の意味論を引用符除去で与えると: 「安倍晋三の発話「私が安倍晋三である」が真なのは、私が安倍晋三であるとき、そのときに限る。」(T文) 私は安倍晋三ではないゆえに先の発話は偽であることが導かれる。
世界、事態、命題、心的態度、文などはお互いに概念的に連関を形成しているので、これに指標的信念を位置づけようとすると信念のウェブのどこを崩すかという問題になる。
世界とは事態の集合である。命題は世界の集合である。心的態度と文は命題を内容とする。→「私はayu-mushi」だというのは事態である。
指標性と意識の関係はどういったものか。
現在位置についての情報を持つことは、指標的ではあるが、自己意識とは違うような感じがする。
自己意識は指標的な内容の一種だが、逆はそうではないという感じか
子供にとっての"Mom"は固有名詞(大文字で書く)