「我思うゆえに我あり」
なぜ発話者なき発話は可能なのに思考者なき思考は不可能なのか
1. 思考があるなら、思考者も居るというのは、思考というのは行為ないし物の状態なので、思考するもの無き思考とは踊り手なきダンスのようなものだと言ってもいいかもしれない
ただ発話については対応する音のパターンが日本語の体をなしていればギリギリ発話だと言えるので、発話者無き発話というのは一応可能
cf. アームストロング『心の唯物論』
2. 発話は日本語の体をなしていれば意味を外部から解釈できるが、思考は外部からの解釈なしで意味というものを持たなければならない。
意味の分子論や意味の全体論によるならば、信念というのは単体で持つことはできない。
だから、単独ではなく複数持つような、そういう何かが存在しなければならない。
それは結局、主体のようなものが存在するということになるのでは?
しかし、主体同士に明確な境界がない、群体生物のようなやつが思考を一部一部共有してるみたいなケースで、思考が単独の主体に帰属されないことはありえるか。
「もう体は無くなってしまったけど、自分はこうして、考えて、感じて、だから、まだここに…」
――もはや誰のものかもわからなくなった思考が、浮かんで、消えた。