時間と内容
つまり、連続的なド・レ・ミの経験は、〔時制化された内容をもつ複数の瞬間的経験の継起にすぎず、〕経験それ自体が時間的延長をもつわけではないということにならないだろうか?
知覚の持つ時制的な内容
普通にいったり考えたりする現在というものは、思考にせよ発話にせよ時間がかかる上、始点や終点を指定できるとも限らないので、現在というのは(0次元の点ではなく)幅をもった区間だというのは、正しいように思う
点を表す曖昧な語という可能性も
【「今」という言葉は(ゼロ次元の)時点を指すという立場への反論】「今はいつか?」と考えるとき、思考には時間がかかるし、思考の始点や終点が指定できるとは限らないように思えるので、そこの「今」は(0次元の)時点を指定できず、幅を持った区間を指すはず。
指で指すときに、空間上の一点を狙うことはできない
もし現在主義が正しいなら、現在とは存在する唯一の時点なのだから、「存在する唯一の時点」ということで今を指すことはできるけど、永久主義が正しい場合、今という時点を、0次元のものとして指示できるかは確かではない