パースペクティブ依存性の論理的扱い
表象が具体的に世界の中にトークン化されるときの局所化のされかたが(a, b, c, …)であるとしたとき
一番下のレベルは、唯物論・心身二元論などの普通の存在論を前提にしている
「○○にとってP」
表象が具体的に世界の中にトークン化されるときの局所化のされかたが(a, b, c, …)であるとしたとき
表象が成立すること を (a,b,c,…) ⊨ (絶対的に) p と表してもいいかもしれない (?)
ここでいう (絶対的に) はオペレーターではなく、注釈
「((a_1,b_1,c_1,… ) ⊨ (FromPerspective[(a_2, b_2, c_2, …))] (絶対的に)p」 ⇔ 「(a_2, b_2, c_2) ⊨ (絶対的に) p」
こう表してしまうと、他者が自分の観点から見た他者の観点であるという情報は失われて、だれの観点から見ても同じ観点になるということになるけど
観点主義的言語では a ⊨ p、view-from-nowhere言語では ⊨ P(a) というふうに書くことにすると、
ayu-mushi ⊨ FromPerspective[永井均](アウチ!)
⇔ 永井均 ⊨ アウチ!
⇔ ⊨ (xは痛がっている)[永井均/x]
ここで、
P(x) = 「xは痛がっている」
P(x)を閉文化したもの = 絶対的にp = 「アウチ!」
アウチ!は原子命題
ayu-mushi ⊨ FromPerspective[お母さん](アウチ!)
⇔ mama-mushi ⊨ アウチ!
⇔ ⊨ (xは痛がっている)[mama-mushi/x]
ayu-mushi ⊨ FromPerspective[お母さん](FromPerspective[お母さん](アウチ!))
⇔ mama-mushi ⊨ FromPerspective[お母さん](アウチ!)
⇔ baba-mushi ⊨ アウチ!
ayu-mushi ⊨ FromPerspective[お母さん](FromPerspective[子](アウチ!))
⇔ mama-mushi ⊨ FromPerspective[子](アウチ!)
⇔ ayu-mushi ⊨ アウチ!
ayu-mushi ⊨ 私はayu-mushiだ
ayu-mushi ⊨ FromPerspective[お母さん](私はayu-mushiではない)
⇔mama-mushi ⊨ 私はayu-mushiではない
ayu-mushi ⊨ 冷やし中華はラーメンよりおいしい
逆立ちしているayu-mushi ⊨ ピラミッドは▼という形をしている
逆立ちしていないayu-mushi ⊨ ピラミッドは▲という形をしている
空高くを飛んでいるayu-mushi ⊨ 東京タワーは小さい
地面を這いつくばっているayu-mushi ⊨ 東京タワーは大きい
「○○さんにフォローされました」
HP♡♡♡♡♡♡♡♡
ツイートに赤いハートマークがついているのは、そのツイートを自分がいいねしたときである。
「そのアカウントがいいねしたときにツイートに赤いハートマークがつくようなただ1つのアカウントが、私のアカウントである」
FromPerspective[a]((絶対的に) p)は、aに相対的にpが真ということではないのか
誰かに相対的にpとは、その誰かにとって絶対的にpということ
認識論理や信念論理、欲求論理とかは考えられるが、人称論理というのはあるのか。またそれがあるとすれば認識論理や欲求論理とはどういう関係にあるのか。
「pを表象する」
「pを表象すると表象する」
のように、人称を考えるときには一般的な表象を文演算子にするとか?
そもそも表象である必要があるのかは分からないけど。
「○○にとってp」
「pを正しく表象する」
「○○がpを表象したとき、それは正しい」
あなたが「私はayu-mushiではない」と表象したとき、それは正しい。
表象であれば、量化子と非自明にインタラクションすることになる (存在しない物を表象することもできるため)
「お母さんは、「お母さん (※1) は病気だ」と思った」
※1=私にとってのおばあさん
「ハイイロガンの雛は、コンラート・ローレンツをお母さん Mom だと思った」
「ハイイロガンの雛は、「お母さん Mom (※2) が死んだら悲しい」とお母さん Mom (※3) は思うだろう と思った」
※2=ローレンツのお母さん
※3=ローレンツ
ここでの「お母さん」は、「(端的に)生まれた直後に目の前にあった、動いて声を出すもの」というような基準で得られる。
同じ巣のアリ同士がコミュニケーションするときに使われる、絶対的な女王の表象
「敵」「味方」
C.S.パースが言うように、怒っている人は自分が怒っていると思ってるのではなく、まず対象の性質として悪みたいなものを考えているのか (まず対象がセクシーなのであり、自分が性的に興奮しているのではない)
ドレツキ: 「色は何か」を知るとき (知覚) と、「色は自分にとってどう見えるか」と知るとき (内観、自己知) ときで、とりたてて違うことをしているわけではない
▲と▼
視点に相対的にある形を持つ
Another debate about the representation of spatial properties concerns the phenomenal difference between the experiences of seeing a four-sided equilateral figure as a square and seeing it as a regular diamond. (The example is from Mach 1914).
Image 1
In one version of this contrast, there are two figures differing only in their orientation to the viewer (on a page, the top and bottom of the square is parallel with the top and bottom of the page; while the diamond is just like the square except rotated 45 degrees around its center.) Assuming that the property of being a square is the same as the property of being a regular diamond (an assumption defended by Peacocke in 1993, contested by Tye 2003, but granted by Tye 2004), this appears to be a case in which there is a phenomenal difference without any difference in the properties represented. The options, then, are similar to the ones listed in the discussion of the inverted color qualia: (i) deny that there is a difference in content corresponding to the phenomenal difference; (ii) hold that there are differences in the way the property of being square is represented, i.e., invoke different modes of presentation of this property (Peacocke 2001a, 2001b); (iii) find some other property that is represented in one experience but not the other, such as the viewer-relative property of resting on a side, or the property having two horizontal sides (properties allegedly attributed by experience to the square but not the diamond); and the property of standing on a point or the property of having inclined sides (properties allegedly attributed by the experience to the diamond but not to the square) (Tye 2005). Here we have another case of a debate between Fregean and Russellian positions on the nature of experience content.
視点についての考察
幻覚論法、不一致論法(?)
変化のパズルの人称版
グリーンピースはおいしくない (ここでいう「おいしくない」とは、おいしいの単なる否定ではなく、反対である)。
しかし、他の人にとってはグリーンピースはおいしい。
ヘーゲルは最初 時点絶対的な言語があって、不一致からの矛盾を解消するためにそれが時点に相対化されるというようなストーリーを示していた気がする。
@ayu_mushi: 電気パルスをRTPJに当てて活動を抑制した状態でトマス・ネーゲル〔あるいは永井均〕の文章を読ませる みたいな哲学実験 自閉症の子供は逆さバイバイしたり、「あなた」と「私」を入れ替えて使ってしまったり、「来る」と「行く」のような視点の切り替えを伴う語彙の使用が苦手だったりする。
サリーアン課題
視点の導入への反対論: 視点というのは場所の比喩だ。そのような比喩を拡張して意味があるのかは分からない。
カメラの位置によって見え方が変わるという例から、他者の立場になって考えるという概念を捉えるのは尚早ではないか
(他者視点取得)
内観や知覚によって形成された表象が自己中心性を持っていること
お腹ペコペコ!という内的知覚表象は、その表象の持ち主のお腹が空いていることを表している
私の腕が痛い
前提にpを付け足した前提集合を再現できる
Γ ∪ {p} |- q ⇔ Γ |- p⇒q
という演算子⇒だけでなく、前提からpを引いた前提集合を再現できる演算子
Γ - {p} |- q ⇔ Γ |- p _ q
という演算子 _ を追加する。
他の前提集合の「視点」を、自分の中から再現する。